言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

多和田葉子『エクソフォニー』(岩波現代文庫)#52

副題「母語の外へ出る旅」

「エクソフォニー」ってなんだろう。ぼくがこの本を手に取ったときの最初の「?」はそこだった。

これまでも「移民文学」とか「クレオール文学」というような言葉はよく聞いたが、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般をさす。

ふむふむ。つまりこれは「言語の違いによる文化の違い」だったり「その他言語社会が共有している価値観に対する新鮮な驚き」を感じている状態ということかな。じゃあ、そんなエクソフォニーな状態ってどう役に立つのだろう。

言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが一つの有力な戦略になる。

ははあ。「何が言語(母語)で表現できて、何が表現できないか」ってことを考えるために、母語の外に出て、俯瞰的な目を持つこと。それがエクソフォニーってことか。そういう外に出る=「異質さを取り入れる」ということでいうなら、読書でいろんな「言語=主張」に触れるというのも戦略の一つになりそう。

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↑併読中の3冊をならべてパシャリ

ところで、この本の著者は1960年に東京に生まれたのだけれど、早稲田の文学部を卒業してからはドイツのハンブルク大学などで学んで、82年からいよいよハンブルクに住み始めてしまったらしい。うん、そういう経歴を知れば「エクソフォニー」に対する説得力もずずいと増してくる。

ぼくは最近これまでを省みて、この著者のような「異質な他者に触れる体験」をさほどしてこなかったなと思っている。だからこの春から、ここでは詳しく言えないのだけれど、そういう「異質さ」にふれるためのチャレンジをするために準備しているところだ。そんな折の『エクソフォニー』だから、自分に深々と杭を打ち込むような、そんな読書になった。

以下、心に沁みた箇所をほろほろと引用しよう。

わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ケ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。

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狭間に立って、情報の行き来のなかだちをするのが「メディア(Media)」。

放っておくと、わたしの日本語は平均的な日本人の日本語以下、そしてわたしのドイツ語は平均的なドイツ人のドイツ語以下ということになってしまう。その代わり、毎日両方の言語を意識的かつ情熱的に耕していると、相互刺激のおかげで、どちらの言語も、単言語時代とは比較にならない精密さと表現力を獲得していくことが分かった。

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続けるためのコツは続けること。多言語学習は「多言語が苦痛」と紙一重

言語は壊れていくことでしか新しい命を得ることができないということ、そしてその壊れ方を歴史の偶然にまかせておいてはいけないのだということ(...)。言葉遊びこそ、追い詰められた者、迫害された者が積極的に掴む表現の可能性なのだ。

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ナンセンスこそが構造を再構築する。「小さきもの」の、大いなる反逆。