言熟文源録【ことば紀行】

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【構造を闡明する】九鬼周造『「いき」の構造』(講談社学術文庫) #32

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 文化は脱ぎすてることはできない
エドワード・ホール『かくれた次元』)

 

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

 

 


 今夜は「いき」を紹介したい。九鬼周造の著作である。
彼が「いき」を書くまでのいきさつ、そのあたりから筆
をおこすことにする。
 九鬼周造1888年、明治の官僚九鬼隆一の4男として
東京に生まれた。1888年は、『東京朝日新聞』や『フィ
ナンシャル・タイムズ』が創刊され、森鴎外がドイツか
ら帰国し、切り裂きジャックがロンドン市中を戦慄させ
ていた、そんな年だ。日本が「帝国」としての憲法を準
備していた時期でもある。そんな時代に生まれ育った周
造少年は、東京は芝の生まれということもあり、早くか
ら江戸の花柳界や俗曲に親しんだ。これが「いき」の第
一の下地となる。
 1912年、九鬼は和辻哲郎と同期で東京帝国大学哲学科
を卒業。大学院を経て1921年にはヨーロッパに留学する。
折しもその頃のヨーロッパは、リッケルトハイデガー
ベルグソンフッサールといった新しい哲学が胎動して
いた時期で、九鬼は大いに薫陶を受ける。こうしたヨー
ロッパの形而上学が「いき」の第二の下地だ。彼はフッ
サールやベルグソンに学んで、その文化の風土にひそむ
感覚を哲学したのだ。例えば、『「いき」の構造』序説
から引用してみよう。


 フランス語のうちに「いき」に該当するものを見出す
ことができるであろうか。第一に問題となるのはchicと
いう言葉である。(中略)この語の現在有する意味はい
かなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほ
ど限定されたものではない。外延のなお一層広いもので
ある。


 こんなふうにして、九鬼はある文化が生む概念は「特
殊の存在様態の顕著な自己表明」であることを示してい
く。ちなみに外延(extension)とは、ある概念に属する個
物の集まりをいう。例えば「犬」という概念の外延は、
ラブラドールやチワワといった個々の犬を指す。
 さて、ヨーロッパをたっぷり呼吸した九鬼は1929年に
帰国すると、西田幾多郎らに京都帝国大学へと招かれ、
京都に暮らした。そこで体感した「はんなり」が、「い
き」を考える第三の鍵になる。
 こうして1930年、彼は本稿『「いき」の構造』を発表
する。なにが「いき」で、なにが「いき」でないか(野
暮であるか)は本書をめくって見てもらうことにして、
ここではぼくの所感を2つ3つ書こうと思う。というのは、
ユリシーズの超難解小説『フィネガンズ・ウェイク』に
対して神話学者のJ・キャンベルが『フィネガンズ・ウェ
イクを解く親かぎ』を用意したように、この『「いき」
の構造』も親かぎがないと、「読み切る」ことはかなり
難しいということだ。つまり、「ヨーロッパ形而上学」、
「江戸の鉄火」、「京のはんなり」それぞれに通暁して
いる人でなければ、九鬼がいう「いき」の言語感覚を肌
身で感じることは困難だろう。しかし、九鬼が何かもの
ごとを「特殊の存在様態の顕著な自己表明」としてとら
えようとした態度は、いまでも踏襲しうるものだとおも
う。というのも、九鬼が「いき」の構造を闡明(せんめ
い)したように、ぼくたちが「神ってる」や「zoom飲み
会」といったようなバズワードを説明できるかもしれな
いと感じるからだ。こんど、機会をつくってチャレンジ
してみたい。
 このあたりで、擱筆しよう。意気地比べや張比べ。今
夜はもう少し、細部や具体に遊んでみることにする。

 

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)