言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫) #51

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知のメディア「千夜千冊」

突然だが、この記事の読者は千夜千冊という Web サイトをご存じだろうか。すべてのものを情報としてとらえる「編集工学」の創始者、松岡正剛が運営する「知のメディア」だ。何を隠そう、ぼくはこの千夜千冊が大好きなのだ。このブログの文章も、拙いながら千夜千冊のテイストに似せている。

ぼくと千夜千冊との出会いは、まだ学生だった 2018 年。神戸三宮のジュンク堂で、千夜千冊の文庫版第 1 作目となる『千夜千冊エディション 本から本へ』を手に取ったことからだ。一読して、衝撃を受けた。1記事に1冊ずつ紹介される書籍に、濃厚な「解説」がついている。それが単なる「書籍の評価」なのではない。その書籍をとりまく文脈や著者の経歴、また自分(松岡)と書籍との付き合い方までが縷々綴られている。

ページをめくるたびに「知の波」が押し寄せてきて、なすすべもなくさらわれた。夢中になったぼくは、大学の図書館にあった7分冊、9000 ページ超の『松岡正剛 千夜千冊』(求龍堂)を 1 年かけて読破したものだった。いまもし「教養が足りない」という悩みをもっているなら、まず千夜千冊をのぞいてみることをおすすめする。今回はそんな文庫版「千夜千冊エディション」の中から第4作『情報生命』をとりあげたい。

あるとき、ニューヨークの上空に巨大な銀色の円盤が覆ったまま動かなくなった。連隊のようだ。
全世界が固唾を吞んで見守るなか、円盤の総督らしき人物が、全無線周波数帯を通じて演説をした。カレレンと名のった。みごとな人工音声による英語の演説で、しかも圧倒的な知力を駆使している。いいかげん地球上の衝突や功利をやめないかぎり、ここを動かないという。カレレン総督の演説がおわると、地上のめいめい勝手な主張などが通用する時代に幕がおりたことが明確になった。それよりなにより、地上におけるどんな決定力よりもこの知的円盤体がくだす指導や指示のほうが、地球全体の知恵を足し算したものよりも図抜けて上等のものであることが了解されてしまった。そこで・・・。
この出だしにはギャフンだった。兜を脱いだ。アーサー。クラークの『地球幼年期の終わり』の導入部だ。スタンリー・キューブリックの《2001 年宇宙の旅》を京橋のテアトル東京のばかでかいスクリーンで見た年に創元 SF 文庫から新しい翻訳が出たのだが、キューブリックの仕掛けにやられた矢先、またまた脳天の隠れ部位を何かでこづかれたのだ。1969 年の冬だ。(アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』)

「圧倒的な知力を駆使」「知的円盤体」というようなことばは円城塔作品を彷彿とさせる。

まさに、これなのである。バラードはディストピアにいるのではなく、宇宙の片隅の浜辺にいる男なのである。その男は生物体としては半ば異常化しているらしく、そうなってしまっていることを知るよすがをさがしている。よすがはこの宇宙の情報生命がつながりあうネットワークのどこかの切れ目か結び目にあるようなのだが、漠然と周囲を見ているかぎり、男のまわりの多くの現象や人間たちには何の変化もおこってはいないように見える。それでもそこに、僅かな前兆や予兆が走るのだ。
そのとたん、事態は一気に様相を変え、とても小さな異変ととても大きな異変がなんだか呼応しているように、感じられてくる。バラードはその照応の異同を綴っていく。ディストピアなんぞではなかったのだ。(J・G・バラード『時の声』)

初期値のほんのわずかな違いによって、全体の様相が大きく変わる系は複雑系と呼ばれる。生命システムとしてのヒトもその1つだ。『情報生命』は 28 冊の本を手すりにして、複雑系、動的平衡システム、そして生命と情報の深奥に迫っていく。

第一世代のシステム論は「動的平衡システム」である。ここでは、有機体は外部の環境と物質代謝やエネルギー代謝をしながら自己を維持しているシステムとみなされる。 第二世代のシステム論は「動的非平衡システム」を対象とする。物質代謝とエネルギー代謝をしながら、システムの形成を通じて周辺条件を有利に変えていく開放系を扱う。 第三世代のシステム論が「オートポイエーシス・システム」である。システムを自己決定しているシステムだ。すなわち、みずからの構成素と相互作用しながら作動する自己言及システムであって、そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムである。

ポイエーシスとは、ギリシア語で「産出」「創造」を意味することばだ。オートポイエーシスとは「自己が自己をつくる」のだ。

われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも二つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。 トポスにこだわれないのは、場所に対する執着が薄くなっているということである。食う寝るところも住むところも贅沢をいわなければ適当に選べるし、旅をするのも友を訪ねるのもいつでもできるので、特定の場所にはこだわらない。しかしトポス(topos)がどうでもよくなればトピック(topic)もどうでもいいわけで、したがってユートピック(u-topic)にも夢を感じないということになる。

「いま・ここ」の感覚。最近いそがしいビジネスマンのあいだにも瞑想(マインドフルネス)がじわりと浸透してきているのも、その感覚を取り戻すためだというのが一因としてあるのだろう。ぼくたちはいつでもどこでも他者と「接続」できる。ここでいう他者とは、単に「他の人間」という意味ではなく「自分ではないすべてのもの」という意味合いだ。「場所の魂」がいまこそ問われている。

ユングは(...)いわばわれわれには最初から「無の充満」があるとみなしたのである。プレローマとはそのことだった。もともとはグノーシス派の神学用語で「充ちあふれたもの」といった意味だが、ユングはそのプレローマが、これもユングが名づけた「プシコイド(psychoid)」という元型状態のどこかにひそんでいると考えたのだった。そこは「コンテクストのない物心未分」のところで、その物心未分のところが何かのきっかけで解れてきたとたん、そこからいくつもの「物心両用のコンテクスト」が解錠されてくるにちがいない。そう考えたのだ。

ちなみにグノーシスとは「知識」「認識」を意味するギリシア語だ。宗派としてのグノーシス派は、人間個人の本来的自己(いわば「本当の自分」)の認識を得ることによって神から救済されると信じる一派を指す。

情報と生命についてのシサク(思索、施策)は、ウィリアム・ギブスンが描き出した「ハイパー・ヴァーチャル=リアル」へと達する。

今日は 2000 年6月2日である。そこかしこに二十世紀最後の黄昏がたちこめているはずだが、事態はぶじぶじと停滞しきっていて最悪だ。ポストモダン思想とサイバーパンクが何かを使いはたして「からっきし」を露呈させたと言われかねまい。 そんなふうに感じるとしたら、主題と主観によって社会や世界を見ようとしすぎたからだろう。これではすぐに「からっきし」がやってくる。そうではなくて、方法の世紀が始まろうとしていると見るべきなのである。主題の世紀がヴァニシング・ポイントに向かっていて、これに代わって「方法」を語る時が来ていると思えばいいのだ。

今日は 2021 年1月 16 日である。「方法の世紀」に入ってはや 20 年が過ぎた。ぼくが見るに、まだ巷間には主題をとりあげる向きも多い。COVID19 の蔓延を受けた緊急事態宣言も、大きな効果をあげているとはいいがたい。ぼくたちの感覚の中では、この有事が平時になっているのだ。だとすれば、感染終息後の「ニューノーマル」こそが有事だろう。平時に有事を考えるうえで、本書が絶好の手すりになるはずだ。