言熟文源録【ことば紀行】

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【行動経済学入門の入門】ダン・アリエリー『予想通りに不合理』(ハヤカワノンフィクション文庫) #42

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この記事から学べること

不合理な論理

あなたは義理の母親の家で感謝祭のごちそうを食べている。テーブルには特別に用意された豪華な料理がいっぱいに並んでいる。(中略)あなたはベルトを緩め、グラスのワインを口にする。そして、テーブルの向こうにいる義母を敬愛のまなざしで見つめながら、おもむろに立ちあがって財布を取りだす。「お義母さん、この日のためにあなたが注いでくださった愛情に、いくらお支払いすればいいでしょう」あなたは真摯に言う。一同が静まりかえるなか、あなたは手にしたお札を振ってつづける。「三〇〇ドルくらいでしょうか。いやいや、四〇〇ドルはお支払いしないと」

この記事を読んでいるあなたは、上のような振る舞いをしたら周りの雰囲気がどうなるか予想できるだろう。義母は善意の料理に金銭を払うと言われて、良い気分はしないはずだ。では、このような状況でお金を払うことはなぜ、一般的に好ましくない状況だと思われているのだろうか。

それはわたしたちがふたつの異なる世界―社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則をつくる世界―に同時に生きているからだ。

ここで「社会規範が優勢な世界」とは、友人同士のようにほのぼのとした「助け合い」によって成り立つ関係・環境のことだ。この世界において、相手の要求に応じて何かをすると《どちらもいい気分になり、すぐにお返しをする必要はない》。つまりお金のやり取りは度外視される。

一方、「市場規範が規則をつくる世界」はまったく違う。ほら吹きとどら焼きくらい違う。《賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ》。だがその分、《対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある》。要するにお金を払った分だけ見返りが得られる世界だ。

冒頭の例をもう一回見てみよう。この例の「あなた」は、社会規範が優勢な世界に「いくらお支払いすればいいでしょう」と市場規範を持ち込んでしまったために、一同が静まりかえってしまったのだ。

本書はこのように、人間の「実生活における論理」を平易な言葉と科学的な実証をもって解き明かしていく。著者のダン・アリエリーはノースカロライナ大学で認知心理学を修め、さらにデューク大学経営学の博士号をとった行動経済学の第一人者だ。「心理学者が経済学?」と不思議に思う向きもあるかもしれない。そこでこの記事の後半では、「行動経済学」って何なのか、どんな流れから生まれてきたのかを紹介しよう。

合理的な経済人・不合理な人間

行動経済学は21世紀になってから注目されだした、比較的新しい学問だ。その研究テーマはざっくりいうと「従来の経済学ではうまく説明できなかった『不合理な』社会現象・経済現象の論理を、人間の振る舞いを観察することで明らかにする」といったものだ。もう少し詳しく説明しよう。もともと経済学という学問が、その理論をつくるにあたって大前提としていた人間像がある。「ホモ・エコノミクス(経済人)」と呼ばれる。この前提によれば、人間は「セルフ・インタレスト(自己に関連したもの=私利私欲)に基づいて、効用(満足感)を最大化するような合理的な行動を選択する」存在だとされる。

アダム・スミスをはじめとする経済学者たちは、この前提を基にして経済学の理論をつくりあげてきた。こうした経済理論は、時に国家の経済政策の科学的な後ろだてとなって、現実に強い影響を及ぼしてきたことも事実だ。だがしかし、あなたは思うだろう―「人間はそんなにいつもいつも、私利私欲を求めていて合理的なわけじゃない」と。まったくその通りだ。認知心理学者のダニエル・カーネマンもそう思った。そこで、「心理学の手法をもって不可解な人間行動、ひいては不可思議な経済現象を解き明かすことができるのではないか」と考えたのだ。

結果を言ってしまえば、この試みは大成功だった。カーネマンはエルサレムヘブライ大学の同僚エイモス・トバースキーとともに、「行動経済学づくり」を敢行した。

私たちはお互いに容易に理解できる程度には似ていたが、お互いに相手を驚かせる程度にはちがっていた。私たちは平日の多くの時間を共にする日課を決め、よく散歩をしながら議論を戦わせた。(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房))

彼らの提唱した重要な理論に「プロスペクト理論」がある。これは人間が、「現状からみれば得」より「今よりも損」のほうに大きく反応する傾向があり、その損がきわめて大きくなると大きな反応は示さない(いわば「現状維持志向」になる)ことを明らかにしたものだ。この理論を説いた論文は《大きな影響をもたらし、行動経済学を支える基盤の一つとなっている》。プロスペクト理論はさらに、それ以前にフランスの経済学者アレが指摘していた「アレのパラドックス」を合理的に説明するものだった。これ以上詳しくは紹介しないが、要するにカーネマンらの「リスクのある状況下での意思決定の分析」はいわば「行動経済学の夜明け」になった。実際2002年に、カーネマンは「経済学に心理学の手法を導入し、不確実性のもとでの人間の判断・意思決定について新たな研究分野を切り開いた」という理由でノーベル経済学賞を受賞した(残念ながらトバースキーは1996年に亡くなっている)。

とは言え、行動経済学はまだ始まったばかりだ。2004年には日本にも行動経済学研究センター(大阪大学)ができた。ぼくたちも本書を通して、こうした「人間の不合理な論理」に目を向けるのも良いかもしれない。

参考