言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ』(インターシフト) #49

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この記事から学べる事

  • 現代に通じるソクラテスの批判
  • 『プルーストとイカ』の要旨
  • 文字が読めることの「異常さ」

文字が読めるという神秘

初めて文字が読めることに気づいたのはいつだっただろうか。ぼくにはそのあたりの記憶があまりない。そもそも幼少期の出来事をそれほど覚えていない。母に聞いてみると「小学校に上がるまで、けっこう絵本の読み聞かせはしてたよ」と言っていたので、たぶんそうなのだろう。読書に関する記憶でもっとも古い光景は、薄茶色の本棚に2~3冊並んだ『かいけつゾロリ』シリーズだ。それからポプラ社の児童むけ『怪盗20面相』や『アルセーヌ・ルパン』シリーズが増えていった。今でも人気のある『ハリー・ポッター』シリーズは、2つ隣の家のおばさんが「賢者の石」と「秘密の部屋」を貸してくれたのだったけれど、ぼくにはあまり読めなかった。それでも「読めない」と言うのが悔しくて、ずっと「面白かった」としらをきっていた。

ぼくがそうやって読書―書かれた文字を「読む」こと―を楽しみはじめる2000年以上も昔、ギリシアで「文字文化」に否定的な意見を表明した哲学者がいた。ソクラテスだ。彼は《ぎょろりとした出目で、額は盛り上がり、ギリシャ人にしては珍しいほど容貌の美に恵まれていなかったが、弟子たちに囲まれて中庭に立ち、抽象美や知識、“吟味しつつ生きること”の計り知れない大切さについて熱心な対話を交わした》。そんな彼が文字文化、書き言葉に否定的だったのは、それが柔軟性に欠け、ものごとを覚える努力を怠らせるが故に、人間の『知識を真に理解して使いこなす能力』を失わせるものではないかと懸念していたからだ。要するに、《ソクラテスが心から心配していたのは、若者たちが指導も受けず、批判する能力も持たずに情報を手にした場合に知識におよびうる影響》だった。この懸念は、情報過多の時代を迎え、日々情報に接するぼくたちにも驚くほど当てはまる。

『プルーストとイカ』という本があることは、2年ほど前から知っていた。それを先日、JR八王子駅北口の商業施設「セレオ八王子」8階にある有隣堂に立ち寄った時、たまたま見つけた。著者はイギリスでディスレクシア(読字障害)を研究する認知神経科学者だ。読字障害の専門家が、なぜ読書に関する本を書いたのか。それは、著者が「文字を素早く読める脳と文字がなかなか読めない脳を比べることで、人間はどのように文字を読むようになるのかという生物学的・認知的な過程が見えてくるのではないか」と考えたからだ。

書記言語を習得できない脳の原因を探れば、その働きを別の角度から見ることができるようになる。素早い泳ぎを習得できないイカの中枢神経が、泳ぎに必要なものを教えてくれるのと同じだ。その逆も言える。文字を読む脳について理解すれば、ディスレクシアを別の観点から見直すことができるのだ。こうして両面から検討を進めるうちに、知能の進化に対する視野が広がっていく。そうすれば、読字をはじめとする文化的発明は、脳が秘めている驚くべき可能性のひとつの表れに過ぎないことが見えてくる。

そもそもの話、「読字のための特殊な脳領域」は存在しないということが読字障害の出現につながっている。文字が読める人は、元々は他の目的―物体の認知や、運動制御―に使われていた領域をうまく連携させて読書をしているのだ。この現象は「ニューロンのリサイクリング」と呼ばれている。こうしてみると、神経科学的には文字が読めることの方が「異常」なのだ。だからこそ、「文字が読めない子どもたち」は決して他より劣った存在ではないので《どの子どもの潜在能力も見逃さないようにすること》が重要だと著者は強調する。例として、彼女は自身の息子でディスレクシアであるベンの例を挙げている。

ちょうど、サミュエル・T・オートンのややこしい側性化説について書いていた時のことだ。ベンは高校時代によくしていたように、私と並んでダイニングルームのテーブルに向かっていた。オートンが当時、おそらく間違っている説にたどり着いてしまったのはなぜかという個所にさしかかって、ふと目を挙げると、ベンはピサの斜塔の全体像を細部に至るまで実に精緻に描いている。それが何と、上下逆さまなのだ!

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最後に、著者は昨今のデジタルメディアの発達に目を向ける。「アナログか、デジタルか」というような議論がある中で大切なのは、そのどちらかをとってどちらかを捨てるという態度ではなく、ソクラテスが考えていたように「知識を真に理解し使いこなす能力」を磨くことだという。

分析と推論ができ、自分の考え方で文字を読む脳に、人間の意識を形成するあらゆる能力と、敏捷、多機能、視聴覚を含む複数のコミュニケーション・モードを利用するマルチモーダル、情報統合を特徴とするデジタル思考の能力が備われば、排他的な世界に住み着く必要はない。

要するに著者は、読書の利点は読書している時間にあるのではなく、そのテクストを離れ《超越して思考する時間》にこそあると考えているのだ。それゆえに彼女はこの本に最終章を設けず、《結末はあなた、読者の筆次第だ……》と結んだ。だからぼくはこの記事を、『プルーストとイカ』の最終章の1つにしたいと思う。これまで生まれてきた、そしてこれからも生まれるであろう、無限数の最終章の1つに―。