言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

【19世紀のクラブシーン】高野史緖『ムジカ・マキーナ』(ハヤカワ文庫) #35

f:id:fugithora812:20200602193637j:image

 

 ようこそ、ふぎと屋へ。今日は高野史緒『ムジカ・マ
キーナ』を紹介しよう。

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

 


無冠のデビュー作


 この作品でデビューしろと言われたところで、たかが
一応募者に過ぎない私に何ができるだろうか。分不相応
なまでの奇跡が起きなければどうにもならないだろう。


 本作は1995年の第6回日本ファンタジーノベル大賞
終候補作であり、作家・高野史緒のデビュー作だ。ぼく
は文学理論に明るい訳ではないのでエラそうなことは言
えないが、「無冠の作品」ながらその筆力に凄みのよう
なものを感じた。言い換えるなら、登場人物や、物語が
展開する舞台への愛着といったところだろうか。外面的
な描写から、ある人物の心情描写にすばやく切り込み、
さらに有無を言わせない勢いで他の人物の中に入り込む
というような文体は、かなり楽しめた。時代設定は19世
紀後半のヨーロッパということで、ファンタジーノベル
でありながら、ビスマルクやナポレオン3世といった史
実の人物も多く登場する。歴史好きには面白く読める作
品だろう。
 物語は1870年ごろのウィーンとロンドンを中心に展開
する。最初読者はあまり事態を呑み込めない内に、プロ
イセンのベルンシュタイン公爵、謎の少女マリアと連れ
立ってウィーンを訪れるのだが、そこで事態がすこし形
になってくる。どうも、18世紀のウィーンに「クラブ」
ができたらしいのだ。史実に登場するassociationなクラ
ブではない。大音量の音楽に合わせて踊る方のクラブだ。
しかも、巷の噂によれば、そのクラブの界隈で聴覚から
快感を得られる麻薬《魔笛》がやりとりされているらし
い。ベルンシュタインにとって気がかりだったのは、そ
の《魔笛》の効用が、かつて自らが医療用の鎮痛剤とし
て開発を命じた《イズラフェル》の副作用とよく似てい
たからだ。《イズラフェル》は、禁止薬として製造中止、
関係者には箝口令を敷き、薬そのものはおろかその情報
すら漏れていないはずだったのだが…。さらに不気味な
ことに、そのクラブの興行師モーリィと関わった音楽家
の多くが失踪し、その行方は杳として知れないという。
これはどうも、モーリィなる興行師が怪しい。そしてそ
の後ろには、《ムジカ・マキーナ》社なる企業をやって
いるイギリスの貴族がいるらしい。奴らの尻尾をなんと
か掴めないものか。
 とまあ、筋立てはこんな感じなのだが、この「ファン
ジー」に絶妙に「史実」が重なってくる。とくに「実」
際に1870年に起こった普仏戦争に絡めて、「虚」構の物
語が展(の)びていくようすは歴史好きでありファンタジ
ー好きでもあるぼくの好みに刺さった。
 こんな交響曲のような作品はいかにして生まれたのか。
これはどうも作者の体験に多くを負っているようだ。
 著者の高野史緒は1966年、茨城に生まれた。その家庭
は本人いわく「ゲージュツもへったくれもない環境」だ
ったようだが、小学校の高学年くらいからクラシックを
自主的に聞くようになる。この西洋音楽への没頭が、中
世から近代のヨーロッパを学ぶモチベーションになった。
当然というべきか、茨城大学の文学部では中世史を専門
とする。この時に身につけた歴史資料の探し方、吟味の
やり方がその後の創作活動にも生きることになった。
 彼女が作家として初めて成果を上げるのは1988年のこ
とだ。第2回青山円形劇場脚本コンクールに応募したバ
レエ入り演劇脚本『エレヴァシオン』が佳作を受賞した。
ちなみにエレヴァシオンとは"elevation"と綴り、バレエ
では「実際の跳躍の高さ」を示す言葉だ。蛇足だが、エ
レヴァシオンに対して「見かけ上の跳躍の高さ(どれだ
け高く飛んでいるように見えるか)」をバロンと呼ぶ。
 さて、これで勢いにのった高野は1994年、本作『ムジ
カ・マキーナ』で第6回日本ファンタジーノベル大賞
応募する。だが、作品は最終選考まで残ったものの「い
かなる賞をも取り損ねた」。ところが面白いのはここか
らで、そんな作品が新潮社から出版されることが決まる
のだ。「受賞者ではなく、過去に出版実績の全くない者
が同賞からハードカバーでデビューする」のは前代未聞
だったという。それだけ、編集者など目の肥えた読み手
に魅力ある作品と映ったのだろう。
 長々と案内してきたが、言いたいことは結局「この本
面白い」だ。「産業革命後のイギリスにクラブミュージ
ックと、ついでにメタルとパンクまで前倒しで到来して
いる偽史音楽SFの世界」なんてものはこの本のなかでし
か味わえないのではとおもう。ぜひ、独特の世界観に身
を浸しながら読んでみてほしい。

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

 

 


参考


小学館日本大百科全書
平凡社『世界大百科事典』
http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/031201.shtml
http://www.sakkatsu.com/author/detail/12627/
https://bookmeter.com/books/533946