言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

吉本ばなな『スウィート・ヒアアフター』(幻冬舎文庫)#53

ひそやかな鎮魂・ささやかなエール

同じように聞こえているけれど、子どもたちはきっと同じではない、卒業したり入学したりして、確実に入れ替わっているのだ。私の細胞もきっとあのときとは違ってほとんど入れ替わっている。だから今は今なんだ。そう思った。

これが彼女の魅力。なんでもない日常を綴るようでいて、そこにかるがると哲学を放り込んでくる。こういう文に触れると、ひそやかな幸せのようなものを感じる。なんというか、深く落ち込んでいるわけではないのだけれど、元気があるというわけでもないようなときに読みたくなる文章だ。

小さいことが人間関係をこつこつと創っているのだということも、事故の後にはじめてほんとうに気づいた。夜通し語り合ったり、いっしょに寝たり、旅をしたりするのではなくって、毎日ちょっとずつ、気づかない程度に思いやり合っているだけでも、しっかりと信頼のお城ができること。

ふう、なんとも心休まるような書き口だ。からからに乾いたのどをうるおす、コップ一杯の安心。ここで語られている「事故」がなんなのかは、どうか本編にあたってみてみてほしい。きっと最初から度肝を抜かれる。

吉本ばななは、このほっとする中篇を誰に向けて書いたのだろう。このことについて、作家自身はあの災害が大きくかかわっていると語る。

2011年3月11日の震災は、被災地の人のみならず、東京に住む私の人生もずいぶんと変えてしまいました。
とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。

「生きている人死んだ人、全てに向けて書いた」。ぼくが本編を読んで感じた「ひそやかな幸せ」は、これが生者へのエールであり、死者への鎮魂の歌であるからこそ生まれてきたものなのだろうと思う。

あのときから、もうほとんど10年になる。この記事の読者の中にも、つらい日々を経験した人がいるだろう。もしそうだとしたら、この本はあなたにこそ読まれるべきものだ。