言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

石飛道子『空の論理』(サンガ文庫)#54

「わたし」を空じて想像する

想像力と空の発見

SF作家のJ.G.バラードは、地球上に残された最後の資源は「想像力」だと言ったという。そのことが心に引っかかっているときに、長浜バイオ大学で数理物理学をやっている西郷甲矢人氏の『圏論の道案内』(技術評論社)に挑戦した。けっきょく圏論は深くまでわからずじまいに終わったけれど、あとがきで西郷氏が「わたしのヒーローはナーガルジュナ(龍樹)氏、そしてもちろんゴータマ・ブッダ氏であった」と書いていた。物理屋さんの口からそんなことばが出たことに面食らったぼくは、そのままこの『空の発見』を手に取ることになる。

紀元1世紀。ローマ帝国が「五賢帝」の時代に入り、ヨーロッパにおける栄光を享受していたころ、中央アジアから中部インドにかけてはクシャーナ朝が最盛期を迎えていた。そんな折、北インドで『小品般若経』が成立した。そこには「大乗」という文字が使われた。間をおかずカニシカ王が即位して、仏典結集を行っていくなかで、ブッダの前生における「菩薩」(悟りを求める者、の意)を理想的な人間像とする一派が「大乗仏教」として自立していくようになる。

しかし、大乗の考え方が『法華経』『華厳経』『阿弥陀経』といった経典群にまとまっていくと、異教徒たちがそれをうまく使って自分たちの教説を強化し、好き勝手に「理論化」するという事態がおこる。ひょっとするとブッダの思想は、それを援用した他教の人々に食い荒らされ、そのまま地にうずもれてしまっていたかもしれない。

だがそれを救ったのが、南インド出身の龍樹(ナーガルジュナ)だった。仏教が「思想世界」が占める位置を明確にし、とくに著作『中論』において、「仏教思想に最大の影響を与えた」と言われる「空の思想」を確立した。

語ることについて語るときに僕は「空」を語る

「空(くう)」とは何か。本書の著者によれば、それは「語ることば」について語るときにおさえておきたい論理なのだという。

およそ、ことばが用いられるところには、仏教の場合、「空」の論理が用いられているのです。

空ということば自体は、「中身がからっぽ」という意味をもつ。これは『小空経』というお経から知られることなのだそうだ。だから「空の論理を用いて語る」と言ったときは、「からっぽであることを利用して他人とうまく対話する」というような意味あいになるだろう。

この「中身がからっぽ」ということは、「自分のことばに執着しない」というふうに言い換えられるだろうと思う。さらに言い換えれば、「相手に合わせた語り方ができる」ということだ。たとえば、エンジニアであるぼくがそうでない友人に「ごめんごめん、Dockerコンテナのビルド時のエラー対応に追われちゃって・・・」なんて言ったら、もう声をかけてもらえなくなるだろう。相手の「その分野に対する知識の深さ」によって、伝わる語り方と、そうでない語り方があるのだ。だからこそ、自分を「空じて」、相手に伝わる語り方を、その場その場で編み出してゆく。ブッダや龍樹は、その術の達人だったのだ。きっとそうして語り方を変えていく過程では、チャールズ・パースが言うところの「アブダクション」も大いに躍如したことだろう。

相手の聞きたい内容をくんで、ことばにその知りたい意味や名づけを自由に入れて、相手に渡す(...)。それを完全にできたのが、ブッダであり、龍樹なのです。相手がわからないとみるや、次々とことばを換え、名づけを換えて意味を新たにし、相手の理解につながるように自在に話を展開できたのです。

冒頭で紹介した西郷氏の話に戻るけれど、彼が二人を「わたしのヒーロー」だと言ったのは「自分の専門について、いかようにも語ることができるという勇気を与えてくれた」からではないか。そう思った。