言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

中村文則『去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎文庫)#55

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この一文を読んでほしい。中村文則『去年の冬、きみと別れ』の作中で示される、死刑囚の手紙の一文だ。

もうこんな自分なんて死んでしまえばいいって普段は思ってるのに、やっと死ねると思ってるのに、突然、こんな風に急に怖くなるんだ。僕は何もしてないのに、無実の罪で死刑になるんだよ。マスコミにこのことを暴露してくれ!お願いだよ。僕を死から救ってくれ!

精神医学のセカイでは、「精神疾患の診断と統計の手引き」というものがある。その英語のイニシャルをとってDSMと略される。これは何年かおきに改訂され、そのたびに精神医療のグローバルモデルになってきた。とくにアメリカ精神医学の権威ロバート・スピッツァーがリーダーとなって1980年に制作された第3版が大いに広がり、その名が知られるようになった。ちなみに日本で「うつ病」が話題になったのは1994年のDSM第4版あたりからだ。

今や統合失調症、双極性障害といった「精神疾患」は、耳慣れないビョーキではなくなった。いや、もはや癌や脳卒中と並ぶ5大疾病になった。

いち小説の紹介に、なんで精神疾患の話をもちこんだのかと思うかもしれない。が、ぼくは『去年の冬、きみと別れ』を読んで、この精神疾患に、あるいはそれを認知した社会にひそむ「陥穽」を感じたのだ。

ちゃんと治る、あるいは治療で緩和できる病気として精神疾患を定義したというのは、良い。ぼくの身近にもそれで前向きに治療に取り組んでいる人はいるし、またそうすること自体がある種の「救い」になるのだろうとも思う。

だが、イシツ(異質)なことを言う人に対し、恣意的に精神疾患のレッテルを貼るとしたら、どうか。このとき、精神疾患は「われわれ」の論理を正当化するためのフィクションになる。矛盾を遠ざけるための機構として機能してしまうのだ。では、もしもその「排除機構」がうまく作用したとしたら、ターゲットを社会から完全に排除することができるのではないか。たとえば、死刑にするというような形で――。

本作はミステリーでもあるから内容自体に触れるのは控えておくけれど、ぼくには上に書いたような「もしも」を描いた物語として読めた。著者は福島大学の行政社会学部を出た後、2002年に『銃』で第34回新潮新人賞を受賞してデビューした。公式サイトのプロフィールによると、その後2007年にはカメかダンゴ虫になりたい(なんとなく)、と思い、また2011年には目の下のクマと一生付き合うことを決意した(しかたなく)らしい。こういうユーモア、ぼくは大好きだ。この人の本を読んだのはこれが初めてだけれど、もっと読みたくなった。