言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

【肉はいらない?】クリストファー・E・フォース『肥満と脂肪の文化誌』(東京堂出版) #46

f:id:fugithora812:20200904163448j:plain

この記事から学べること

  • 「脂肪・肥満に対する嫌悪感」のルーツ
  • 近代科学が引き起こした問題
  • 昨今注目される「オルトレキシア」とは

これまでの麺カタコッテリの話をしよう

平成26年度厚生労働省調査によると
我が国の脂質異常症の総患者数
206万人
糖尿病 総患者数
316万人
高血圧性疾患による死亡者数は
6,932人
痛風で通院中の推計患者数は
2013年に100万人を超えた
心疾患の発症リスク低下のための
生活習慣改善の重要性!
薬剤処方にとどまらず、
患者意識の向上
そして医師と患者が
共通の認識をもって
治療に取り組む姿勢が重要である!
知らんがな!
(マキシマムザホルモン『maximum the hormone Ⅱ~これからの麺カタコッテリの話をしよう~』より)

ぼくたちは知らないで生きてきた。ぼくたちがもっている「脂肪に対する嫌悪感」のルーツをだ。本書はそこを取り上げた。オーストラリア国立大学やアメリカのカンザス大学で教鞭をとってきた文化史家による大作だ。

そもそも脂肪や肥満に対するイメージは一貫しているわけではない。生命力と生殖力を蓄える手段として、肉体をわざと太らせようとする文化も存在する。ただ、「肥満=嫌悪」という観念は古代ギリシア・ローマ人にまでさかのぼれる。正確には、「識字能力があり、文筆活動に時間を割くことができたギリシア・ローマの自由人」だ。彼らは《贅沢な暮らしを通じて自らを肥育することは、主体性を放棄することだ》と考えた。特に軍事国家スパルタではこの傾向が強く、引き締まった身体をもった市民たちの社会は《プラトンとアリストテレスの「ユートピア思想の手本」となっただけでなく、何世紀もの間、他の多くの哲学者たちから理想の共同体と評価されてきた》。ただ、古代ローマにおいて貴族たちの肥満はほとんど見過ごされていたようだ。ところがキリスト教誕生以降、肥満はガスや分泌物などの惨めな物体と結びつけられ、「肥満=嫌悪」観念はさらに強化されていく。

キリスト教徒たちは、ローマの上流階級が奴隷、隷属状態、無規律、臆病、「柔らかさ」と関連づけた「イデオロギー的な嫌悪」を、何らかの形で肥満に当てはめるとともに、脂肪本来の脂っぽい老廃物という側面も古代ギリシア・ローマ人には馴染みのない方法でうまく利用した。このように、キリスト教徒は肥満を俗世の油脂と汚物に結びつけ、中世に入っても根強く残る一連の考え方を確立させたのだ。

これはぼくの感想だが、結局のところ肥満に対する嫌悪感は、「進んだ文化のやせた人たち」の自尊心が生み出したのかもしれない。つまり、「進んだ文化」の人々が他文化に対する優位性を確立し、自らの美徳や自制心への自信を深めるために「他の文化の太った人たちを否定し、蔑む」という手段をとったのではないかということだ。

「肉」はいらない

近代に入り、科学技術が発達した社会では《新しいテクノロジーによって病気も醜さも老いも管理される社会》への欲求が無意識のうちに生まれ、人によっては《流線型で効率的なマシンのような肉体を理想に掲げ》るようになる。この「ユートピアニズム」はしかし、「肉のない身体」を欲するあまり死を選ぶというような事態を引き起こした。本書で紹介されている事例で言うと、エレン・ウェストというスイス人女性は、自らが太る不安に苛まれた挙句、自ら命を絶ったという。アメリカの哲学者ゲイル・ワイスはこの事態を「生身の肉体が経験する混沌」に順応できなかった結果だとみた。彼女は「エネルギッシュで、軽くて、活発」という近代の理想的女性像を追求するあまり、生を忌避しすぎたのだ。

こうした状況を踏まえ、脂肪に対する嫌悪感が「生を問題視する意識」に変貌していないか、と本書の結びにおいて著者は問いかける。脂肪を毛嫌いするあまり、生きていくのに必要な量の脂質すら摂っていないんじゃないかというのだ。ぼくにとって初耳だったのは、最近は「オルトレキシア」というタイプの摂食障害が出てきているということだ。

オルトレキシアは健康食に病的にこだわる、昨今、注目の摂食障害だ。一部の専門家は、ネオリベラルな現代社会を「オルトレキシア社会」と呼んでさえいる。

「健康である」とはどういうことか。「理想的な身体」とはどんなものか。ぼくたちはそこをあらためて考える時に来ているのかもしれない。

トガっていたいがちょっと身の疲れ 栄養足りなきゃ仕方ない
パワーが欲しい パワーが足りない ガッツが欲しい ガッツが足りない
何かが欲しい 何かじゃわからん 肉食べ行こう そうしよう

【行動経済学入門の入門】ダン・アリエリー『予想通りに不合理』(ハヤカワノンフィクション文庫) #42

f:id:fugithora812:20200807083900j:plain

この記事から学べること

不合理な論理

あなたは義理の母親の家で感謝祭のごちそうを食べている。テーブルには特別に用意された豪華な料理がいっぱいに並んでいる。(中略)あなたはベルトを緩め、グラスのワインを口にする。そして、テーブルの向こうにいる義母を敬愛のまなざしで見つめながら、おもむろに立ちあがって財布を取りだす。「お義母さん、この日のためにあなたが注いでくださった愛情に、いくらお支払いすればいいでしょう」あなたは真摯に言う。一同が静まりかえるなか、あなたは手にしたお札を振ってつづける。「三〇〇ドルくらいでしょうか。いやいや、四〇〇ドルはお支払いしないと」

この記事を読んでいるあなたは、上のような振る舞いをしたら周りの雰囲気がどうなるか予想できるだろう。義母は善意の料理に金銭を払うと言われて、良い気分はしないはずだ。では、このような状況でお金を払うことはなぜ、一般的に好ましくない状況だと思われているのだろうか。

それはわたしたちがふたつの異なる世界―社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則をつくる世界―に同時に生きているからだ。

ここで「社会規範が優勢な世界」とは、友人同士のようにほのぼのとした「助け合い」によって成り立つ関係・環境のことだ。この世界において、相手の要求に応じて何かをすると《どちらもいい気分になり、すぐにお返しをする必要はない》。つまりお金のやり取りは度外視される。

一方、「市場規範が規則をつくる世界」はまったく違う。ほら吹きとどら焼きくらい違う。《賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ》。だがその分、《対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある》。要するにお金を払った分だけ見返りが得られる世界だ。

冒頭の例をもう一回見てみよう。この例の「あなた」は、社会規範が優勢な世界に「いくらお支払いすればいいでしょう」と市場規範を持ち込んでしまったために、一同が静まりかえってしまったのだ。

本書はこのように、人間の「実生活における論理」を平易な言葉と科学的な実証をもって解き明かしていく。著者のダン・アリエリーはノースカロライナ大学で認知心理学を修め、さらにデューク大学経営学の博士号をとった行動経済学の第一人者だ。「心理学者が経済学?」と不思議に思う向きもあるかもしれない。そこでこの記事の後半では、「行動経済学」って何なのか、どんな流れから生まれてきたのかを紹介しよう。

合理的な経済人・不合理な人間

行動経済学は21世紀になってから注目されだした、比較的新しい学問だ。その研究テーマはざっくりいうと「従来の経済学ではうまく説明できなかった『不合理な』社会現象・経済現象の論理を、人間の振る舞いを観察することで明らかにする」といったものだ。もう少し詳しく説明しよう。もともと経済学という学問が、その理論をつくるにあたって大前提としていた人間像がある。「ホモ・エコノミクス(経済人)」と呼ばれる。この前提によれば、人間は「セルフ・インタレスト(自己に関連したもの=私利私欲)に基づいて、効用(満足感)を最大化するような合理的な行動を選択する」存在だとされる。

アダム・スミスをはじめとする経済学者たちは、この前提を基にして経済学の理論をつくりあげてきた。こうした経済理論は、時に国家の経済政策の科学的な後ろだてとなって、現実に強い影響を及ぼしてきたことも事実だ。だがしかし、あなたは思うだろう―「人間はそんなにいつもいつも、私利私欲を求めていて合理的なわけじゃない」と。まったくその通りだ。認知心理学者のダニエル・カーネマンもそう思った。そこで、「心理学の手法をもって不可解な人間行動、ひいては不可思議な経済現象を解き明かすことができるのではないか」と考えたのだ。

結果を言ってしまえば、この試みは大成功だった。カーネマンはエルサレムヘブライ大学の同僚エイモス・トバースキーとともに、「行動経済学づくり」を敢行した。

私たちはお互いに容易に理解できる程度には似ていたが、お互いに相手を驚かせる程度にはちがっていた。私たちは平日の多くの時間を共にする日課を決め、よく散歩をしながら議論を戦わせた。(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房))

彼らの提唱した重要な理論に「プロスペクト理論」がある。これは人間が、「現状からみれば得」より「今よりも損」のほうに大きく反応する傾向があり、その損がきわめて大きくなると大きな反応は示さない(いわば「現状維持志向」になる)ことを明らかにしたものだ。この理論を説いた論文は《大きな影響をもたらし、行動経済学を支える基盤の一つとなっている》。プロスペクト理論はさらに、それ以前にフランスの経済学者アレが指摘していた「アレのパラドックス」を合理的に説明するものだった。これ以上詳しくは紹介しないが、要するにカーネマンらの「リスクのある状況下での意思決定の分析」はいわば「行動経済学の夜明け」になった。実際2002年に、カーネマンは「経済学に心理学の手法を導入し、不確実性のもとでの人間の判断・意思決定について新たな研究分野を切り開いた」という理由でノーベル経済学賞を受賞した(残念ながらトバースキーは1996年に亡くなっている)。

とは言え、行動経済学はまだ始まったばかりだ。2004年には日本にも行動経済学研究センター(大阪大学)ができた。ぼくたちも本書を通して、こうした「人間の不合理な論理」に目を向けるのも良いかもしれない。

参考

【コロナと仏性】幸田露伴『風流仏』 #41

f:id:fugithora812:20200801154910j:plain

この記事から学べること

  • 『風流仏』とはどんな物語か
  • 露伴が表現したかった思想
  • 幸田露伴の生い立ち

はかない風流・永遠の仏性

 明治文学の大家、幸田露伴の出世作だ。尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』に続く形で「新著百種」第5号として発刊された。1889年のことだ。同じ年に大日本帝国憲法が発布され、エッフェル塔が完成した。北里柴三郎も破傷風菌の純粋培養に成功していた。そんな年に露伴文学は世に躍り出た。

 仏像彫刻をなりわいとする「仏師」を主人公にした話だ。フロム・ソフトウェアから発売されている人気ゲーム『隻狼』にはうら枯れた老年の仏師が登場するが、本作の仏師は21歳と若く、恋愛盛りの青年だ。珠運(しゅうん)という名のその仏師は、「古跡めぐりの旅」の途上立ち寄った木曽(いまの長野のあたりだ)の須原で花漬売りのお辰と「仲良く」なり結婚する段どりとなる。ところが何年も行方が知れなかったお辰の父は、維新に際して海外へ渡り、帰国後子爵となっていた。「町の定食屋の看板娘が、実は社長令嬢だった」という状況を想像してもらえれば良い。ともかくお辰はその子爵の娘ということがわかった為に東京に連れ去られ、珠運との縁談は反故になる。狂おしいのは残された珠運である。彼は自分ではどうしようもできない状況を前に、檜の板に女体の菩薩像を刻み始める。罵りつ、口説きつして彫り上げたその菩薩像にはやがて魂が宿り、珠運ともども仏となって所々にあらわれる。「はかない風流」が「仏性」を得る。そういう話だ。

 終盤の文章は飛躍的な描写が多く難解だが、《風流と仏とは矛盾したものではなく、風流即仏となって始めて大調和の世界が生ずる》(塩田良平)という思想を表現したものだとされる。塩田氏は《現実とその破綻を煩悩と理性との対立の形で描写され、そこを芸術によって乗りきったところに、真風流が生じたことを示した》と評している。要するに面白いので一度読んでみる価値はある。ぼくは細部の描写を味わいながら、ひとつずつかみくだくように読んだ。「虚言(うそ)といふ者誰吐そめて正直は馬鹿の如く、真実は間抜の様に扱はるる事あさましき世ぞかし」という一文が一番のお気に入りだ。

茶坊主に生まれた露伴

 露伴が生まれた幸田家は、代々「お茶坊主」として幕府に仕えていた家柄だ。1867年、江戸は下谷(したや)に生まれた。いまの台東区(たいとうく)北西部だ。ちなみに67年、維新の1年前の生まれだから、さきに紹介した尾崎紅葉とは同い年だ。露伴は湯島の聖堂に通い詰めていたころに出会った淡島寒月を通じて、紅葉とも親しくなった。ちなみに露伴が湯島の聖堂に通っていたのは、そこで東京図書館(いまの国立国会図書館支部上野図書館)の書籍が閲覧できたからだ。ここで彼は当時「邪道」とされていた老子・荘子をはじめとする諸子百家の古典を読破した。それだけでなく、一般の漢学者たちが敬遠していた水滸伝・西遊記なども読み漁り、さらに近世の稗史(はいし)小説、俳諧、雑書まで読み込んだ。これが結果として、作家としての「基礎トレーニング」になった。

 また、文学家というイメージにそぐわず、「官費学生」として電信修技校に入学している。当時、電信技術は先端的な技能だった。いまでいうプログラミングのようなものだ。そこに国のお金で学べたということの要因は家柄もあるだろうが、露伴自身の数学の才も少なくないだろう。ところが彼は卒業後、官費学生の義務として北海道の余市(よいち)町電信分局に赴任するのだが、そこでの勤務を放棄して帰東してしまう。1885年のことだ。ちょうど坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』が出版され、また尾崎紅葉らの硯友社などによって文壇は新たな展開を示しつつあった。露伴は北方でこの情勢を聞き及び、ある種の切なる思いをもって出奔したという訳だ。

 東京に舞い戻ってしばらくの間、露伴は雌伏の時代を送る。父の怒りに触れ、父が経営する紙商の店番をやらされていた。だが何もせず、手をこまぬいていた訳ではない。「風流禅天魔」や「露団々」といった習作を書き上げた。前者は残念ながら未発表のままうずもれてしまったが、露団々の方は1889年の2月に雑誌「都の花」に掲載された後、単行本となった。淡島寒月らが褒めちぎった。男女の悲恋を写実的に描いた小説が盛んになりつつあった当時に、露伴は恋愛を主題とせず、ある種風格がある作風によって世間の耳目を集めた。

 こうして露伴は今回とりあげた『風流仏』をはじめとして、『対髑髏』『五重塔』『幻談』『連環記』と年を追うごとに新作をものしていった。ぼくは2年ほど前、露伴74歳の時の作である『連環記』を図書館で借りだして読んだが、面白かった。だが「ちゃんと読み切る」にはまだ時間がいる作品だとも思った。江戸以前の古典に興味がある向きは、『連環記』にまず親しんでみるのも良いだろう。

 さて、今年の初めから燎原の火のごとく猛威を振るい始めたコロナウイルスとわれわれとは、もう少しつきあっていく必要があるものらしい。ぼくもこの半年間、ほとんど外食していない。そんな今だからこそ、露伴から「はかないもの」の一端を学んでみるのも悪くないだろう。

風流仏

風流仏

参考

  • 集英社『日本文学全集』第3巻
  • 小学館『日本国語大辞典』
  • 小学館『日本大百科全書』
  • 松岡正剛 監『情報の歴史』(NTT出版)

【母を恋うる】泉鏡花『高野聖』(角川文庫) #40

f:id:fugithora812:20200726171311j:plain

この記事から学べること

  • 泉鏡花とはどんな人物か
  • 尾崎紅葉との関係
  • 『高野聖』が出版されたころの社会情勢

紅葉の愛弟子

 先週は尾崎紅葉を紹介した。今回取り上げる泉鏡花は、その紅葉の愛弟子だ。小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉とともに「紅葉の四天王」と称される。特に鏡花は、若くして大成した紅葉宅の最初の玄関番として坐った。

 泉鏡花こと、泉鏡太郎は1873年、石川県金沢に生まれた。父は「政光」の工名をもつ腕利きの彫金師で、母は江戸葛野(かどの)流の大鼓(おおかわ)の大家、中田家の娘であった。要するに鏡花は、「工芸の血」と「芸能の血」を引き継いだのだ。これが後に、その文学にも大いに反映されることになる。ぼくは特に『歌行燈』における、緊張感ある能の描写が好きだ。

 ところで鏡花の作品の主要なテーマの一つとして、「母を恋うる感情」がある。これは1883年、鏡花10歳の時に母が亡くなったことに関連しているとされる。幼くして母を失った悲しみが後に「年上の美女憧憬」という特性となって、鏡花作品に多く出現するテーマとなったのだ。

 さて、鏡花が紅葉邸の門をたたいたのは1891年、18歳の時であった(当時は数え年で年齢を言うのが専らであったから、「数え19歳」と記している書物もある)。実は彼はこの1年前には金沢から上京していたのだが、臆して訪問をためらっていた。慣れない土地での放浪生活の末、地元の友人に諭され「都落ち」する気にまでなっていたのだ。ところが、彼の友人が、紅葉と縁続きの人と同じ下宿にいたところから、彼は何とか面会にこぎつけた。

 会いに来られた紅葉の方はというと、先に述べた親類を伝って面会以前から鏡花の窮乏ぶりを聞いており、また生来の兄貴肌の性質があったから、面会の翌日からさっそく「玄関番」として食わしてやることにしたのだった。

 結局のところ、鏡花文学が世に出るきっかけとなったのはこの面会だった。人間、生きていると奇異な縁や偶然の幸運がひとつくらいはあるものだが、鏡花の場合は紅葉との出会いがそれであった。

ゴーストライト・一代の傑作

 玄関番3年目の5月、京都日出新聞にて鏡花の出世作が連載される。『冠弥左衛門』だ。畠芋之助という名義で出した。実はこの作品は、紅葉らが設立した「硯友社」にいた小説家、巖谷小波(いわやさざなみ)の作品として世に出た。いわば明治のゴーストライターだ。だが評判はさほど良くなく、師の紅葉の下には打ち切りを求める文が少なからず届いたようだ。だが紅葉は師として、鏡花をかばってこれを完結させた。兄貴肌がここでも出た。児童文学者の福田清人氏によれば、この作品は評判こそ良くなかったものの《鏡花の後の発展への芽があり、また後の大作『風流線』へつながる鏡花文学の素因が汲まれる》ものであったようだ。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、今回紹介する『高野聖』は鏡花一代の傑作だ。能の謡曲的な手法を用いて、主人公が宿を共にした旅の僧侶に、かつて飛騨から山越えをした際にであった奇譚を物語らせた。福田氏いわく、《土俗信仰的要素が濃》い彼の神秘主義と、幼き日の母の死に端を発する美女礼賛が、『高野聖』で《みごとに融合している》。と、作品の評価はこんな感じだが、実際に今読んでも面白い。「怪談が好き」「近代文学に触れてみたい」という人には自信をもってオススメできる一冊だ。

1900年という年

 さて、「ふぎと屋」流にこの頃の社会の様相も少し案内してみよう。『高野聖』が世に出たのは1900年のことだが、この頃の日本はというと民主主義の真の実現を求めて普通選挙運動が全国化する一方で、安部磯雄(いそお)を会長に社会主義協会が発足していた。ヨーロッパに目を向けてみると、ドイツのプランクが熱放射による電磁波の波長とエネルギーの関係を説明するためにプランク定数hを導入した一方で、セザンヌの『玉ねぎのある静物画』やクリムトのウィーン大学講堂画が話題をさらっていた。またシベリア流刑から釈放されたレーニンはスイスへ亡命し、パリ万博では史上初めてトーキー(有声)映画が上映され、来場者たちを驚かせていた。

 こんな折に発表された、鏡花の「幻想世界」にハマる人は後々まで多かったようである。松岡正剛氏は「千夜千冊」で《三島由紀夫も五木寛之も、鏡花復権を謳っていた。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられた》と書いている。ぼくもどうやら、その中のひとりになりそうだ。折しもこの記事を書いている今、外は篠突く雨である。激しい雨音の誘いで幻想世界へ再び赴くというのも、悪くない。

高野聖 (角川文庫)

高野聖 (角川文庫)

  • 作者:泉 鏡花
  • 発売日: 2013/06/25
  • メディア: Kindle版

参考

  • 集英社『日本文学全集』第2巻
  • 小学館『日本大百科全書』
  • 松岡正剛 監『情報の歴史』(NTT出版)
  • 竹内淳『高校数学でわかる相対性理論』(講談社ブルーバックス)
  • Webサイト「松岡正剛千夜千冊」

【26歳の代表作】尾崎紅葉『三人妻』(岩波文庫) #39

f:id:fugithora812:20200721053636j:plain

この記事から学べること

最後の江戸人

 日本が近代国家としてのスタートを切る直前の1867年、 江戸の芝中門前2丁目に生まれた男があった。名は徳太 郎。のちに文学結社「硯友社」を創立し、文学史に名を 残すことになる尾崎紅葉その人だ。工芸家の血を引き、 徳川の名残を呼吸した。

 彼の少年期について、ここでは詳しくとりあげない。 だがひとつ言うならば、紅葉と山田美妙(びみょう)との 出会いは文学史的に重要だ。というのも、この2人の出 会いが「硯友社」の設立につながっていくからだ。

 2人は小学校時代に近所に住む間柄で、その時は間も なく親交が途絶えたが、東京府(当時は「都」でないの だ)第2中学校での再会・紅葉退学による疎遠をへて、 大学予備門(言うなれば英語学校だ)での再会に至って、 硯友社が創立されるのだ。1885年のことだ。

 「硯友『社』」と言っても、当初は今でいう「大学の 文学研究会」のようなものだった。参加した者たちがお のおの書きたいことを書くものだから、そのジャンルは 小説、詩や落語、都都逸(どどいつ)といったように、趣 味的なものだった。ちなみに都都逸とは江戸時代に流行 った俗曲のひとつで、七・七・七・五音に調子をつけて 男女の恋愛などを歌ったものである。「ミリオンヒット」 も多く生まれた。『三千世界』などが有名だ。

 さて、こうして趣味の範囲で始まった硯友社だが、そ の機関紙『我楽多(がらくた)文庫』の発行を続けるうち に、口から口へ好評が広がっていき、1888年には公売を 始めるにいたった。「趣味で始めたYouTubeが本業になっ た」と考えてもらえればわかりやすいかもしれない。

 社会的に見ても、この時期は幕末明初の混乱が「西南 の役」を峠として落ち着き、文学に目を向ける余裕を持 ち始めた頃だった。紅葉はこの頃に法科(法学部)から文 科(文学部)へと移ったが、1890年にはその文科も退いて 「専業作家」への道を歩み始める。坪内逍遥の『小説神 髄』『当世書生気質』出版が背中を押した。

弱冠26歳での代表作

 さて、今回取り上げる『三人妻』は尾崎紅葉の3つの 代表作の内の1つだ(あと2つは『多情多恨』と『金色夜 叉』)。「実業家」の像を初めて描き出した小説でもある。

 主人公は明初の混乱期にあって、己の才覚のみで大豪商 となった男、余五郎(よごろう)。加州金沢の貧農の家に 生まれた彼も、有り余る金を稼ぎし今は衣食住に困るこ とはない。そうすると湧き出てくるのは、むべなるかな 女色の楽しみである。作者はこうした「男にとっての無 二の楽しみとは女色である」という価値観をまず書いて から、前半で余五郎の漁色を描いていく。彼が心を寄せ た女性3人はいずれも、最初は抵抗するのだが、彼がそ の財力をタネに仕掛ける策略にかかり、次々と妾になっ てゆく。

 彼女らがタイトルにもうたわれる通り「3人の妻」と なるのだが、本作にはもう1人、重要な女性が登場する。 本妻のお麻である。実は余五郎、貧乏時代に通いつめた 矢場(「接待」つきの射撃場)で、その本妻をたらしこん でいたのだ。本作後半はこの4人の女性を中心に、人間 関係の機微が描かれる。おのおのが生まれ育った環境に 応じ、個性や行動を描き分けていく技量はものすごい。 紅葉はこれを26歳の若さで書いたというのだから驚きだ。

読売新聞という拠点

 この力作は1892年、7カ月ほどかけて「読売新聞」に 連載された。彼が拠点とする誌面だ。その話もしておき たい。

 紅葉は1890年、出世作『二人比丘尼色懺悔』を書く。 その反響あってか、彼は同年12月から読売新聞社に入社 し、文芸欄を担当することになる。これは今の「文芸部 の記者」とは違って、社員として給料を得る代わりに作 品を書くといった「プロ作家」のようなものだった。子 安峻(たかし)らが今で言う「ゴシップ誌」として創刊し た本紙はしかし、紅葉入社のころには新聞界第一の発行 部数を誇る日刊紙になっていた。さらに当時は、坪内逍 遥らを社員として抱えていたこともあって、当時の文壇 に対する影響も大きいものだった。そんな、まさに作家 としての「ホームグラウンド」を紅葉は拠点にする僥倖 に恵まれたのだ。23歳の時である。その後、彼は『三人 妻』はもちろん、主要な作品のほぼすべてを紙上で発表 した。早熟の才能がほとばしった。

 文筆家としての紅葉はまさに「推敲の人」だった。集 英社の『日本文学全集』第2巻の解説に、紅葉の推敲は 《一句一節を練るため三、四時間を費し、はなはだしい のは数日をへて、ようやく会心の句を得るといった調子 であった》とあるように、かなり凝ったものだったよう だ。また己の文章を錬磨するため、俳句の創作にも励ん だ。句集もまとめられている。

 若くして文壇に名を轟かせた紅葉はしかし、胃を病む 身で『金色夜叉』を書きつづけ、中途にしてその生涯を 終えた。1903年、37歳での永眠である。生前、生死一如 の達観した死生観を述べながらも、執筆途中で逝くこと の無念は小さくなかったようだ。俳人の水落露石にあて た手紙に「今死に候ては七生までも世に出でておもう通 りの文章を書き申さずては已まずと執着致居候」と書い ている。

 さて、今回もずいぶん長く書いてきたのでそろそろ終 わりにしよう。ぼくとしては今後とも折に触れて、『二 人比丘尼色懺悔』から躍如する紅葉の文業が与えた影響 を紐解いていきたいと思う。

参考

講談社『日本人名大辞典』

小学館日本大百科全書

集英社『日本文学全集』    

【「情報選別力」を鍛える】瀬木比呂志『リベラルアーツの学び方』(ディスカヴァー21) #38

 f:id:fugithora812:20200716134956j:image

この記事から学べること

「構造的」に見る

 刺さった。「リベラルアーツ」の重要性、そしてそれ
をどう学び、活かすかというところのエッセンスをここ
まで濃縮した本はないと感じた。何より書名から「学び
方」と、方法にスポットを当てているのが良い。これは
ぼくが「編集工学」の提唱者である松岡正剛氏に私淑し
ていることもあるだろう。編集工学でも「編集という方
法」を通して、自己のありかた、情報のありようを探っ
ていく。詳しくは松岡正剛『知の編集術』(講談社現代新
書)を読まれたい。
 本書『リベラルアーツの学び方』の著者、瀬木氏は裁
判官として勤務する傍ら、研究活動も行っていた「理論
と実践」の人だ。2012年からは明治大学法科大学院
指導にあたっている。本書を書いていることでもわかる
通り、決して「専門バカ」な人ではない。本書では、基
本的な方法を戦略を一通り述べた後、いわゆる学問の分
野から、映画、音楽、美術に至るまで幅広い分野の基本
文献・作品を批評的に紹介している。造詣の深さが節々
に感じられ、とても楽しめた。
 さて、この「造詣を深める」、つまり「リベラルアー
ツを身につける」にあたっては、どういう考え方が重要
なのか。瀬木氏はこう説明する。


 まず重要なのは、個々の対象に接する過程で、批評的・
構造的なものの見方、物事のとらえ方を学ぶことだと思
います。


ぼくの言葉で言えば「本質をとらえる力」を磨くのがな
により大切だ、というようなところだろうか。そうする
と、《批評的・構造的なものの見方》はどうやって学ぶ
のだろうか。


 ポイントとなるのは、自分なりの批評の「定点」、基
準点を定め、それをしっかりと保つことです。定点を欠
いた批評は、自己の知識と見解の主観的・趣味的な羅列
になりがちです。


ぼくはこの文章を「一般的な物事に『絶対的な善悪』は
無い、だがおのおのがおかれた立場、バックボーンにす
る思想によって、『相対的な良し悪し』は生じえる。だ
からこそその学問・作品がどういう立場(=《定点》)に
立脚するか(しているか)、を明確にし、それにのっとっ
て価値判断を下すことが大切だ」という風に読んだ。こ
こでなにより強調されているのは「個々の著作・作品を
全体に位置付けること」ではないかと思う。おそらくそ
れが物事を《批評的・構造的》に見るということだろう。
 では、そもそもリベラルアーツとは何なのか。この問
いに答えるために、以下ではすこし「メタ・リベラルア
ーツ」を試みてみたいとおもう。

リベラルアーツの由来


 リベラルアーツの思想は、古代ギリシアに発祥したと
される。「肉体労働から解放された自由人にふさわしい
教養(パイディア)」という考え方から、当初は「自由七
科」と呼ばれた。具体的には文法学、修辞学、論理学、
算術、幾何学天文学、音楽の七つだ。これらを5世紀
ごろ、カッシオドルスらがキリスト教の理念に基づいた
カリキュラムを組むために、法学・医学・神学の基礎科
目として集大成させた。ここから中世にかけてはある種
の「学問ライセンス制度」なるものが存在し、この「自
由七科」を修めたと認められなければ「最高位の学問」
神学を学ぶことは許されなかった。
 大まかな「リベラルアーツ史」はこういったものだ。
では近年ではどういう位置づけになっているか。これに
ついて瀬木氏は以下のように書いている。


 実践的な意味における生きた教養を身につけ、自分の
ものとして消化する、そして、それらを横断的に結び付
けることによって広い視野や独自の視点を獲得し、そこ
から得た発想を生かして新たな仕事や企画にチャレンジ
し、また、みずからの人生をより深く意義のあるものに
する、そうしたことのために学ぶべき事柄を、広く「リ
ベラルアーツ」と呼んでよいと思います。


 この文章で瀬木氏は《自分のものとして消化する》と
いう言葉を使っているが、ぼくはここに「精神的な栄養
として学問・芸術を取り込み、自らの血肉とする」とい
う示唆を感じた。
 要するに、「消費」ではなく「消化」なのだ。個々の
著作・作品に触れたときに、それをしっかり消化できる
か。この「消化力」こそがリベラルアーツではないか
思う。言い換えれば「趣味の時間を今後に生かす技術」
とも言えるだろう。
 かく言うぼくも今、消化力を鍛えている真っ最中だ。
知識の欠陥を感じていた高校数学の復習に始まり、高校
物理、高校化学、そこから統計学、(特殊)相対性理論
進んできた。「エントロピー」を扱う熱力学や、「複雑
性の科学」にも興味がある。社会科学系で言えば、大学
で学んだ経営学会計学や、社会学をまたやりたい。漫
画では『鬼滅の刃』や『キングダム』を読みたいと思っ
ている。さて、これらをすべてやりきる日は来るのだろ
うか。方法はあっても時間がない。合掌―。

【現代小説の起源】二葉亭四迷『浮雲』(岩波文庫) #37

この記事から学べる事

  • 明治の文豪、二葉亭四迷の生い立ち
  • 四迷が育ったころの社会情勢
  • 四迷の「芸術観」

 危険な読書

 先日ちょっとした縁があり、昭和44年に集英社から刊
行された『日本文学全集』を我が家に引き受けた。全巻
88冊がずらっと居並ぶ姿が圧巻だ。さっそく、第1巻の
坪内逍遥二葉亭四迷』集を手に取った。逍遥の『ハ
ムレット』、『細君』と四迷の『あいびき』、『平凡』、
浮雲』が収録されていた。

f:id:fugithora812:20200713082024j:image

↑赤地に金文字の背表紙が映える

 

 中でも『浮雲』に心を動かされた。いや、苦しまされ
た。主人公の文三の性格が、かつての自分とそっくりだ
ったからだ。まるで四迷に、「お前のダメなところはこ
れだ」と言われているようだった。章ごとに変わってい
く文体に気を配る余裕もなかった。あたかも自分こそが
文三であるかのように、没入して読んだ。こうまで「危
険な読書」をしたのは久しぶりだ。ここでは物語の内々
までは立ち入らないけれど、「プライドが高く、知らな
いことを知らないと言いづらい男性」にはぜひ読んでほ
しい一篇だ。いまならKindleで無料で読める。

浮雲

浮雲

 

近眼の四迷・神眼の逍遥

 長谷川辰之助、つまり二葉亭四迷1864年尾張藩
長谷川吉数(よしかず)のひとり息子として生を享けた。
1864年というのは明治維新前夜、幕末の「あやしい時代」
だ。例えば、前年には薩摩藩が単独でイギリスと戦い、
尊王攘夷」のスローガンがいかに絵に描いた餅も同然
であるかを身に沁みて悟っていた。そのイギリス本国で
は、64年に国際労働者協会(第1インターナショナル)が
結成され、資本家に向かって声をあげており、またアメ
リカを見てみると、南北戦争リンカーン率いる北軍
その勝利をほぼ確実なものにしていた。
 こうした時代に生まれ、明治維新を経験した社会と共
に育った四迷は、国をおおう「富国強兵」に絆されて軍
人を志すようになった。だが士官学校を3度受験し、3
度失敗した。かなりの近眼が祟ったようだ。数学が苦手
なのもあったらしい。そこで四迷は外交官志望に鞍替え
し、東京外国語学校のロシア語学部へ入学した。そこで
の成績はばつぐんに優秀だった。ここでロシア文学に親
しむにつれて文学熱が高まり、すると自然と作家志望の
思いが頭をもたげてくる。そこで彼は、同郷の士でもあ
る先輩小説家のもとを訪ねた。坪内逍遥だ。逍遥は当時
新鋭の作家ながら、『当世書生気質』『妹と背かがみ』
小説神髄』などを次々と上梓し、文壇においてその地
位を確立しつつあった。「芸術」と「真理」の関係につ
いて、積極的に議論したようだ。逍遥が日記『幾むかし』
の、明治19年1月25日のところに「長谷川辰之助来る、
大ニ美術を論ず」と書いている。
 この辰之助=四迷が論じたという美術について、集英
社の『日本文学全集』の解説から少し引用しよう。


 二葉亭(...)の考えでは、芸術は、真理の認識のひとつ
の方法である。学問における真理認識が、知識をもって
するのに対し、感情をもって直接に感得するものである。


ぼくのことばで言い換えれば、学問が「ある前提の上に、
論理的に定理・公理を積み上げていって普遍的な法則を
示そうとする」一方で、小説、ひいては芸術は「直観を
もってたちどころにさとる」というところだろうか。ぼ
くはこの考えにはそれこそ直観的にだが、納得できるも
のを感じた。四迷は、小説において「感情をもって直接
に感得する」ために、その著述においては「実相を仮(か)
りて虚相を写し出だす」、つまり写実的な描写を行うべ
きだろうと考えた。これがいわゆる「近代リアリズム」
の萌芽となる。文学者二葉亭四迷は、わずか3篇の創作
といくつかの翻訳しか残さなかったが、そのリアリズム
の思想で後の文壇に大きな影響を与えたのだ。また、こ
こでは簡単な紹介にとどめるが、「言文一致」の文体を
拓いたのも四迷だった。極言すれば、現代の口語体で書
かれた小説の起源は四迷にあるのだ。なんとも、おもし
ろい。いま、この文章を書いているのは月曜日の午前8
時。仕事が始まるまでにもう1度、『浮雲』を通して四
迷のもとを訪ねたいと思う。―ねえねえ四迷さん、あな
たひょっとして天才じゃないですか?―

文字と会計/原始の信仰【長い歴史の短い一端 #4】

f:id:fugithora812:20200628151133j:image

 この「ながたん」シリーズでは、ゆっくりと「ルカ」
の出現から農耕文化の定着までを追ってきた。今回は、
「会計と文字」の話をしよう。文字が誕生する要因とし
て、「会計」があったという話だ。


 歴史上、文字が初めて生まれるのはメソポタミアのシ
ュメール文明においてのことだ。シュメール人が築き上
げた文明である。ここでは、なぜ彼らが「文字をつくる」
ことに向かっていったのかをとりあげたい。
 シュメール人は、都市国家を形成して定住しつつ、交
易を行って生活していた。文字の誕生以前、彼らは粘土
でできた「トークン」を用いて、何をどれだけやり取り
したか計算を行っていた。
 こうしたトークンは、財(≒商品)ごとに中をくりぬい
た球に入れて保管された。勘の良い人は気づいたかもし
れないが、このやり方は取り扱う財の種類が増えてくる
と少々面倒なことになる。物理的にかさばるのである。
もっと効率的な記録はできないものか。まず彼らが考え
たのは、それまで何の印もつけていなかったトークンに
「溝」を刻むことだった。溝のパターンによって、財の
種類や数をあらわしたのだ。だが、そうやってみると、
まだどうも「物理的にかさばる」問題は解決していない
ように思われる。そこで次第に、溝のパターンの「意味」
が定まってくるにつれ、1枚の粘土板に「意味」をもつ
溝を刻んで保管するという記録方法が確立されていく。
文字の誕生だ。同時にこれは、最古の「会計記録」の誕
生でもあった。文字と「会計」は、その誕生において密
接に関わっていたのだ。ちなみに、シュメール人が生み
出した文字は「楔形文字」と呼ばれる。1847年に解読さ
れた。
 また、一説によれば、楔形文字に着想を得てエジプ
トではヒエログリフが考案されたとされている。これ
は主に石碑や石棺などに刻まれた文字だった。だが、
かなり難解であったため「ラフな記録」をつけてもラ
フに読める者が少ない。そこで、簡略体としてヒエラ
ティックやデモティックが生まれていった。この文字
の解読の道を拓いたのが、ナポレオンによるエジプト
遠征だというのはよく知られた話だ。ヒエログリフ
デモティック、ギリシア文字が併記された「ロゼッタ
ストーン」が発見されたのだ。これを手すりにしてシ
ャンポリオンが解読した。
 一方、中国に目を向けてみると、楔形文字から遅れ
ること2000年ほどで甲骨文字が登場する。「人類が発
明した最も美しい文字」とも言われる。これら「原始
の漢字」については、白川静氏の著作が詳しい。漢字
が好きという人なら、『漢字百話』(中公新書)あたり
が楽しく読めるだろう。「原始な感じ」にどっぷりと
浸ることができる。


 さて、場所をメソポタミアに戻そう。シュメール人
の「宗教観」についても少し見ていきたい。
 彼らの宗教は多神教であった。信仰の対象は「パン
テオン」とよばれる。いわば神々のチームだ。エンリ
ル神をチームリーダーとして、天神アン、太陽神ウト
ゥ、月神ナンナ・スエン、金星神イナンナ、深淵の神
エンキらが名を連ねた。シュメール人パンテオン
加護を得るため、その都市にジッグラトと呼ばれる神
殿を建造した。まだトークンで記録をしていた紀元前
3500年ごろの「流行」だ。ちなみにこれと同じころ、
西ヨーロッパでは巨石文化が拡大していった。イギリ
スのストーンヘンジが有名だ。
 また、エジプトでは「動物トーテミズム」が信仰形
態として確立されていた。動物を神格化したのだ。鷹
神ホルスや蛇神アトゥム、ジャッカル神アヌビスなど
が有名だ。エジプトの王権はホルス(彼は天空神でも
ある)から与えられたものとされた。「王権神授説」
と呼ばれる。また、バー(肉体)とカー(霊魂)の神秘的
合体思想も生まれてくる。「霊魂が帰ってくる場所」
としての肉体を朽ちさせないよう、「ミイラ」という
方法が編み出された。これは紀元前2650年ごろ、オシ
リス神とイシス神への信仰が本格化したあたりから盛
んになっていく。ここでオシリスとは、本来人間に色
々な制度をもたらした良神であり、また自然神として
は季節ごとに復活する永遠の生命の象徴だった。だか
ら、永遠の生命を信じていた古代エジプト人は、死者
は全てオシリスに化すと考えていた。
 イシスはそのオシリスの妹だ。兄と結婚した。とこ
ろが、弟セトがオシリスの支配に対し反逆を企てる。
兄を言いくるめて棺に入れると、ナイル川に投げ込ん
でしまうのだ。この後の顛末はプルタルコスの『イシ
スとオシリスについて』に詳しく描かれているが、ざ
っくり言えばイシスが東地中海岸のビブロスに漂着し
た棺を発見し、セトにバラバラにされていた体の各部
分をつないでオシリスを再生させる。
 さて、オシリス・イシス信仰、ミイラの「流行」と
相まって、エジプトでは一大プロジェクトが進められ
ていた。ピラミッドの建造だ。クフ王のものがこのこ
ろに完成している。ピラミッドの建築は、「人類初の
公共事業」ともいわれる。石材には、その石を切り出
した産地が記載されていたという。
 クフの時代は、王自身が「絶対神」であったのだが、
次第に信仰の対象は太陽神ラーへと変わっていった。
その証として、「第5王朝」以後は大規模な太陽神殿
が作られるようになった一方で、王自身のピラミッド
は小さくなっていく。さらに時代が下ると、「王とは
ラーの子である」とする見方が強まってくる。この神
性が根拠になって、王は神々と人間とを結ぶ存在とみ
なされた。「神なる王(ファラオ)」となったのだ。フ
ァラオは宇宙秩序(マアト)の保持という「神話的役割」
を与えられた存在だと考えられ、社会的には高度に組
織化された中央集権国家のトップとしてエジプト世界
に君臨した。(つづく)

こちら/あちらの新感覚【長い歴史の短い一端 #3】

f:id:fugithora812:20200618083930j:image

 さて、サピエンスが乳幼児の扶養のため社会性を高め
ていくと同時に、それとは相反するようにも見える事態
も起こっていく。道具の高度化により、人間同士の殺し
合いがひときわ目立つようになったのだ。ムラとムラと
の衝突だ。これは個人的な感想だが、「内部と外部」を
規定する心理的・地理的条件によって「守る/攻める」
の境界が決まっていったのだろう。加えて、狩猟採集中
心から農耕牧畜中心へとライフスタイルが変化すると、
より「自分たちの土地」を巡った争いが起こるようにも
なったろう(「この土地は俺たちのムラのもんだ、誰に
も渡さねえ」)。
 最古の農耕牧畜社会は、ユーフラテス川ーメソポタミ
アーの中流あたりで始まったと考えられている。約1万
年前のことだ。イギリスのゴードン・チャイルドは、こ
の事態を「新石器革命」と名付けた。というのも、ほと
んど同じ時期に磨製石器が高度化されたからだ。ここで
磨製石器とは、文字通り「磨く」技術によって製作され
た石器をいう。ただ、これは地域によってバリエーショ
ンに富むので、学術の世界では「磨製石器」とひとくく
りに呼ぶことはあまりない。
 ところで農耕が始まった原因としては、地球の寒冷化
が指摘されている。ヤンガー・ドリアス期と呼ばれるそ
の寒冷期が訪れるまで、西アジア一帯には狩猟採集民の
集団が少なからず存在した。そうした中で、寒冷期の到
来によって手に入る動物や作物が減り、彼らは飢えに直
面する。だがここで、僥倖ともいえることがあった。彼
らの居住地のほど近くに、貯蔵可能な麦、豆類が自生し
ていたのだ。これが農耕への道を決定づけた。変化した
環境に適応する形で、農耕が広まっていったのだ。
 この農耕・牧畜の始まりを一般には「ドメスティケー
ション」と呼んでいる。「自然に順応する」狩猟生活か
ら、「自然を支配する」農耕生活へと劇的な変化が訪れ
たのだ。これが人類の、地上におけるヘゲモニー(覇権)
確立を決定づけた。農耕により、食料が人間の意志で生
産できるようになると、1日中獲物を追いかける必要は
なくなる。つまり、余剰時間が増えるのだ。この時間的
余裕が、社会活動や政治活動を生んだ。直接には生産に
携わらない寄生階級(王・神官・商人など)も登場してく
る。この寄生階級が生産地から少し離れて住むようにな
って、都市が姿をあらわしてくる。
 さて、こうして西アジアの「肥沃な三日月地帯」に農
耕・牧畜文化が根付いたころ、道具などに彫り込む文様
も高度に抽象化した。たとえば西アジアの彩陶土器には
幾何学模様が刻まれ、またドナウ中流のスタルティエボ
土器にはジグザグや山形、波形といった模様が見られる。
また、このころの精神的な信仰としては女性信仰が主だ
った。南メソポタミアの《テル・エッソーワーンの女性
小像》やイランのテベ・シアルク第1層の《地母神像》
がある。シュメール文明ー世界最古の文明として有名だ
ーの神話でも、豊穣の神はニンフルサグ、ニンガル、ニ
ンマフと皆女性器を意味する「ニン」がついている。
 アジアの東側、今の中国のあたりに目を向けてみると、
ここでも同じ時期に水稲農作がはじまったようだ。「華
北の粟・江南の米」と俗に言われる。黄河流域と長江流
域とでは、適した農作物が違ったのだ。農作の開始に伴
う形で、江南には「大汶口文化」と呼ばれる文化が興る。
その遺跡からは翡翠象牙を使った加工品が多く見つか
っている。
 農耕が普及していくにつれ、人々はある重要な事態に
気づく。「季節の移り変わり」を何とかして予測せねば、
効果的に農作物を収穫することができないのだ。「種蒔
きの時期」はいつで、「収穫の時期」はいつなのか。そ
れを解き明かす必要がある。鍵になるのは太陽の運行だ。
どうも、この星は昼/夜という短期的な周期だけでなく、
360日ちょっとの長期的な周期ももっているらしい。
 最初に大きな成果を上げたのはエジプトだった。恒星
年を発見したのだ。恒星年とは、恒星の周りを惑星が公
転する周期をいう。地球においては、これが365.2564日
となる。この数値をもとに、太陽暦が考案された。1年
を365日とし、端数の0.2564日はうるう年で調整すること
にした。
 もうひとつ、面白い話を紹介しよう。定住が風景を生
んだという話だ。動きまわって狩猟採集をしていたころ、
「風景」は存在しなかった。遠くに見えるあの山も、近
くにあるこの野原も、彼らにとっては「行くことができ
る場所」だった。「こちら側にある場所」だった。それ
が定住を始めて、遠くに霞む山を「あちら側の風景」と
して眺めるようになっていく。風景を風景として同定で
きるようになったのだ。この「こちら/あちら」の感覚
が、ゆくゆく「アルカディア」や「ユートピア」、「桃
源郷」や「浄土」という構想を生むことになる。(つづく)


 

P-T境界とサピエンスの台頭【長い歴史の短い一端 #2】

f:id:fugithora812:20200615090851j:image

 さて、前回は「ルカ」と呼ばれる原始生命の誕生から、
カンブリア紀の生物多様化までざっと見てきた。今回は
その後、約6億年前から話を始めよう。
 この約6億年前というのは、生物にとって大きなター
ニングポイントの一つだ。光合成の作用によって大気中
の酸素濃度が20%前後に達してオゾン層ができはじめ、
紫外線が大幅にカットされるようになったことで陸上に
進出できるような環境になったのだ。ちなみにオゾンと
は酸素の同素体で、特有の匂いをもつことからギリシア
語のozein(匂う)にちなんで命名された。これは太陽光の
紫外線により酸素が光解離することから始まる一連の作
用によって作られ、上空15~25キロメートルに多く滞留
する。オゾンによって吸収された紫外線は、熱となって
成層圏の温度上昇に一役買っている。
 こうして細菌や植物を嚆矢として、生物は陸に上がっ
ていく。3.59億年前からはじまる石炭紀の出来事だった。
その後も生物は何度も絶滅の憂き目に遭ってきたのだが、
とくにペルム紀(Permian)と三畳紀(Triassic)の端境期で
古生物史上最大の絶滅が起こった。P-T境界絶滅という。
この大量絶滅の原因はいまだ論争が絶えないところだ。
主な説としては、ヘドロの堆積によって海洋が無酸素状
態になったという説や、大規模な火山活動が環境激変の
契機になったという説などがある。この大量絶滅を境に
して、古世代は中生代へと移る。生物はここで両生類か
ら爬虫類へと転換する。
 1.45億年前から6600万年前までの白亜紀は、恐竜たち
が陸上を闊歩した時代だ。この時代は地殻変動が比較的
激しく、とくに環太平洋地域では海底の沈み込みなどに
伴う火山活動が頻繁におこり、多くの金属鉱床をもたら
した。また、今日の大西洋はこのころから開口し、旧大
陸(=ヨーロッパなど)と新大陸(=アメリカなど)とが中
央海嶺から次第に乖離し始めたと考えられている。白亜
紀のころの化石でよく知られているのはアンモナイト
放散虫だろうか。部分的にはウニなども示準化石(それ
が産出された地層がいつのものか決めるのに用いられる
化石)として利用される。
 この白亜紀の最後にも大量絶滅が起こる。直径10キロ
メートルの隕石がユカタン半島に落下したことが原因だ
とされる。このときに爬虫類から哺乳類への転換が起こ
る。恐竜も、その一部は鳥類に姿を変えて今日まで脈々
と生き残っていくことになる。
 そして、約7000万年前にアフリカでヒトが登場する。
ヒトはホモ・エレクトゥスなど多様な種類がいたが(犬
にチワワやレトリーバーがいるように)、最終的には、
われわれ現生人類の祖先(ホモ・サピエンス)だけが生き
残った。なぜサピエンスが他の人類種を圧倒しえたのか
というあたりの事情は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピ
エンス全史』(河出書房新社)が詳しい。

 


 サピエンスは約10万年前から6万年前にかけて、海路
アフリカを出発し、ユーラシア大陸を横断して南アメリ
カ南端にまで至ったと考えられている。地層を調べてみ
ると、大型の草食哺乳類メガファウナの骨が激減するの
と同じ時期にサピエンスの骨も出てくるので、サピエン
スがメガファウナを食べつくしたと見られている。世界
を股にかけた大移動も、このメガファウナをまさしく地
の果てまで追いかけていった結果であったろう。
 さて、この「グレート・ジャーニー」の途上、7万年
前頃にサピエンスは言語を操るようになったとされる。
その理由については色々考えられてきたようだが、今日
において有力な説としては、「脳が異常に発達したホモ・
サピエンスが、思考を整理するためのツールとして言語
を発明した」というものであるようだ。サピエンスは火
を使って肉を消化しやすくしたことで、脳にエネルギー
を回す余裕が生まれ、その結果として言語が生まれたと
いう順序を踏む。
 ご存知の通り、サピエンスは二足歩行をその生態とし
てもっている。そのため、骨盤の大きさにも厳しい制約
が課せられることになる。その制約のなかでは、大きな
脳をもった次世代のサピエンスをそのまま産み落とすこ
とはできなかった。要するに、サピエンスは動物界の標
準からみれば極めて早い段階での出産を余儀なくされた
のだ。出産後には、まず脳の成長のために多くのエネル
ギーが費やされる。体の成長は二の次だ。だからこそ人
間は、成人になるまで長い時間を必要とするのだ。
 こうした生態を宿命づけられたサピエンスは、自然と
社会性を高めていくことになる。乳児がある程度成長す
るまでは、その面倒を見る必要があるからだ。ここにお
いても言語を用いたコミュニケーションが生かされる。
しだいにこの「社会」は、道具や火の使用と相まって、
地域によってはより高度な「文明」へと昇華していく。
(つづく)