言熟文源録【ことば紀行】

ふっくら熟れたことばの実。そのタネをみつめる旅に、出かけましょう。

『本―TAKEO PAPER SHOW 2011』(平凡社) #47

f:id:fugithora812:20200921085614j:plain 9月下旬の4連休、ぽつぽつと雨が降ってきそうな曇りの日に、JR八王子から京王八王子へと向かう道沿いのBOOKOFFで気になる本を見つけた。「本」の名を冠した本。その浩瀚さ、装丁の独特さに惹かれてふと手に取った。

表紙にはこうある。

紙に定着された「物体としての本」の魅力を伝えるコンセプトブック。
本と人との関わりをビジュアルで綴る「人間と本」。
識者78名が選んだ本と、エッセイ78本。
紙の本の未来と、本のデザインの可能性を展望する。

ぼくのような「蔵書家」には、なんとも好奇心をくすぐられる文章だ。じゃあ「識者78名」って誰なのか。そう思ってみてみると、『マチネの終わりに』の平野啓一郎、編集工学の松岡正剛、講談社現代新書のデザインを手がけていた杉浦康平など錚々たるメンバーだ。迷わず購入した。

この記事を書くまで知らなかったのだが、竹尾ペーパーショウという「紙の祭典」があるらしい。紙の専門商社である株式会社竹尾が主宰している。そしてこの『本』の刊行は、「紙の本の可能性を拓く」というコンセプトで開催された2011年の目玉であったという。要するにいま、本書を新しく手に入れられるということは、皆既日食ぐらいレアなのだ。これもまた、自分にとっての「珠玉の一冊」になりそうだ。

ところで本書を持ち帰ってみて気が付いた。本棚の1段より微妙に大きいのだ。まあ、こんなことはよくあることだ。飽きるまで机の隅に飾ることにした。矯めつ眇めつ、ながめて楽しむ日々が続きそうだ。

【肉はいらない?】クリストファー・E・フォース『肥満と脂肪の文化誌』(東京堂出版) #46

f:id:fugithora812:20200904163448j:plain

この記事から学べること

  • 「脂肪・肥満に対する嫌悪感」のルーツ
  • 近代科学が引き起こした問題
  • 昨今注目される「オルトレキシア」とは

これまでの麺カタコッテリの話をしよう

平成26年度厚生労働省調査によると
我が国の脂質異常症の総患者数
206万人
糖尿病 総患者数
316万人
高血圧性疾患による死亡者数は
6,932人
痛風で通院中の推計患者数は
2013年に100万人を超えた
心疾患の発症リスク低下のための
生活習慣改善の重要性!
薬剤処方にとどまらず、
患者意識の向上
そして医師と患者が
共通の認識をもって
治療に取り組む姿勢が重要である!
知らんがな!
(マキシマムザホルモン『maximum the hormone Ⅱ~これからの麺カタコッテリの話をしよう~』より)

ぼくたちは知らないで生きてきた。ぼくたちがもっている「脂肪に対する嫌悪感」のルーツをだ。本書はそこを取り上げた。オーストラリア国立大学やアメリカのカンザス大学で教鞭をとってきた文化史家による大作だ。

そもそも脂肪や肥満に対するイメージは一貫しているわけではない。生命力と生殖力を蓄える手段として、肉体をわざと太らせようとする文化も存在する。ただ、「肥満=嫌悪」という観念は古代ギリシア・ローマ人にまでさかのぼれる。正確には、「識字能力があり、文筆活動に時間を割くことができたギリシア・ローマの自由人」だ。彼らは《贅沢な暮らしを通じて自らを肥育することは、主体性を放棄することだ》と考えた。特に軍事国家スパルタではこの傾向が強く、引き締まった身体をもった市民たちの社会は《プラトンとアリストテレスの「ユートピア思想の手本」となっただけでなく、何世紀もの間、他の多くの哲学者たちから理想の共同体と評価されてきた》。ただ、古代ローマにおいて貴族たちの肥満はほとんど見過ごされていたようだ。ところがキリスト教誕生以降、肥満はガスや分泌物などの惨めな物体と結びつけられ、「肥満=嫌悪」観念はさらに強化されていく。

キリスト教徒たちは、ローマの上流階級が奴隷、隷属状態、無規律、臆病、「柔らかさ」と関連づけた「イデオロギー的な嫌悪」を、何らかの形で肥満に当てはめるとともに、脂肪本来の脂っぽい老廃物という側面も古代ギリシア・ローマ人には馴染みのない方法でうまく利用した。このように、キリスト教徒は肥満を俗世の油脂と汚物に結びつけ、中世に入っても根強く残る一連の考え方を確立させたのだ。

これはぼくの感想だが、結局のところ肥満に対する嫌悪感は、「進んだ文化のやせた人たち」の自尊心が生み出したのかもしれない。つまり、「進んだ文化」の人々が他文化に対する優位性を確立し、自らの美徳や自制心への自信を深めるために「他の文化の太った人たちを否定し、蔑む」という手段をとったのではないかということだ。

「肉」はいらない

近代に入り、科学技術が発達した社会では《新しいテクノロジーによって病気も醜さも老いも管理される社会》への欲求が無意識のうちに生まれ、人によっては《流線型で効率的なマシンのような肉体を理想に掲げ》るようになる。この「ユートピアニズム」はしかし、「肉のない身体」を欲するあまり死を選ぶというような事態を引き起こした。本書で紹介されている事例で言うと、エレン・ウェストというスイス人女性は、自らが太る不安に苛まれた挙句、自ら命を絶ったという。アメリカの哲学者ゲイル・ワイスはこの事態を「生身の肉体が経験する混沌」に順応できなかった結果だとみた。彼女は「エネルギッシュで、軽くて、活発」という近代の理想的女性像を追求するあまり、生を忌避しすぎたのだ。

こうした状況を踏まえ、脂肪に対する嫌悪感が「生を問題視する意識」に変貌していないか、と本書の結びにおいて著者は問いかける。脂肪を毛嫌いするあまり、生きていくのに必要な量の脂質すら摂っていないんじゃないかというのだ。ぼくにとって初耳だったのは、最近は「オルトレキシア」というタイプの摂食障害が出てきているということだ。

オルトレキシアは健康食に病的にこだわる、昨今、注目の摂食障害だ。一部の専門家は、ネオリベラルな現代社会を「オルトレキシア社会」と呼んでさえいる。

「健康である」とはどういうことか。「理想的な身体」とはどんなものか。ぼくたちはそこをあらためて考える時に来ているのかもしれない。

トガっていたいがちょっと身の疲れ 栄養足りなきゃ仕方ない
パワーが欲しい パワーが足りない ガッツが欲しい ガッツが足りない
何かが欲しい 何かじゃわからん 肉食べ行こう そうしよう

【現実 VS 幻想】フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 #45

f:id:fugithora812:20200830095340j:plain

この記事から学べること

死の灰が降り注ぐ

第3次世界大戦後、地球。惑星全体が生命を遺伝子レベルで汚染する死の灰に覆われ、その灰に侵されなかった「適合者(レギュラー)」たちのほとんどは近隣の星へと移住していた。こうした状況の下では「生きた動物」が何よりの希少品、地位の象徴であり、会話の種である。また異星開拓の必要に迫られた人類は、どんな環境でも作業できる有機的ロボット(アンドロイド)たちを製造し、自分たちの下で働かせるようになった。

サンフランシスコ警察署に勤める「バウンティハンター」、リック・デッカードは、同僚が火星から逃亡したアンドロイド8人を追って返り討ちにされたという情報を受け取る。どうやら「彼ら」は、ネクサス6型脳ユニットと呼ばれる新型高知能ユニットを「搭載」しているらしい。人工の電気羊しか持っていないリックは本物の動物を得るために、彼らにかけられた懸賞金を得ようと決死の狩りを始める…。

リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』の原作だ。ぼくにとってずっと気になっている本だった。何かと理由をつけて買わずにいたが、やっと先日、自宅近くのブックオフで購入した。帰ってすぐ、かじりつくように読み切った。

本書において、ディックは人間とアンドロイド=「限りなく人間的な機械」との違いは何なのかと問うた。そしてそれは「エンパシー能力の有無」だと考えた。つまり自分以外の人や可愛がっている動物といった「他者」に感情移入できるかどうか、ということだ。訳者あとがきには、ディックの描くアンドロイドは《機械的な行動パターンに侵された人間》の隠喩だとするアンガス・テイラーの解釈が紹介されている。

ディックにとって、アンドロイドとは、内面的に疎外された人間―つまり、分裂病その他なんに限らず"現実"の世界(人間的な関わりあいと感じ方の世界)に接触できなくて、内に閉じこもり、機械的な生活を送っている人間―の象徴なのだ。

メロメロにするディック

フィリップ・K・ディックは「長い20世紀」を生きた作家だ。1952年からSFを書き始め、その初期は短編の名手として知られた。だがそれ以降は、社会的に共有された価値観と個人的な幻想世界観との葛藤や相克を描くようになる。名だたる作家、思想家がディックにメロメロになった。

ブライアン・オールディスは早々と「ディックとバラードだけが読むに足る作品を書いている」と言っていた。アーシュラ・K・ル・グィンは「わが国のボルヘス」という最大級の賛辞をつかった。ティモシー・リアリーは二十世紀をとびこえて「二一世紀の大作家」と名付け、さらには「量子時代の創作哲学者」と褒めちぎった。  ボードリヤールは「現代の最も偉大な実験作家である」と書いたし、アメリカのSFが大嫌いなスタニスワフ・レムですらディックだけは褒めたあと、「アメリカのペテン師に囲まれた幻視者」と評した。(松岡正剛「千夜千冊」より)

なぜディックは知識人たちをとりこにできたのか。ぼくには「"いまの社会"が抱えている矛盾を、哲学的な思索をもとにしながらも難しい言葉を使わずに表現したから」だと思われる。ファンの間ではこれを「ディック感覚」というらしい。

こうして各界に根強いファンを獲得したディックは、その晩期ではユダヤ教クムラン教団の思想やグノーシス主義などを取り入れて『ヴァリス』3部作を書く。そしてそれを遺言にして、53歳でこの世を去った。ここでクムラン教団とはユダヤ教の一派で、律法(学校の「校則」のようなものだ)を学び、その戒律を守って清浄な団体生活を送った者たちをいう。1947年の『死海文書(写本)』の発見、および1951~56年のキルベト・クムラン遺跡、アイン・フェシカ遺跡の発掘によってその存在が確認された。

死海文書が中心的に意味しているところは、とりあえずはっきりしている。 それは、クムラン宗団にはメシア待望思想が芽生えていて、そこにはイエス・キリストの禁欲的な前身ともいうべき「義の教師」が活動をしていたということだ。いや、それだけではなく、その「義の教師」は紀元前50年ころに処刑されていた。(松岡正剛「千夜千冊」より)

このあたりはぼくも興味があるところだが、いまこれ以上とりあげるのはやめておく。結局のところ、みんなをメロメロにしたディックは、その死から40年近く経ったいまでも新たな読者をメロメロにしているのだ。リック・デッカードが生きた動物に惹きつけられるように―。

参考

【哲学のどんでん返し】ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫) #44

f:id:fugithora812:20200822113646j:plain

この記事から学べること

自宅の「岩波空間」

いまの自宅には、高さ180cm、幅90cmの本棚が2架ある。その内の1つの最上段が「岩波空間」になっていて、学生のころ背伸びして買った『笑い』(ベルクソン)や『形而上学』(アリストテレス)、社会人になってオトナ買いした『水滸伝』10巻などがずらりと並ぶ。今回紹介する『論理哲学論考』もそのラインナップの1つだ。最後の《語りえぬものについては、沈黙せねばならない》という1文が有名だ。

語りえぬものって?

ウィトゲンシュタインは、神の存在やその死などといった事実として認識しえないことについて、分析することには興味がなかったのです。(出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社)

ウィトゲンシュタインの文体はかなり体系的だ。《一 世界は成立していることがらの総体である》からはじまって、論理的に記述を進めていく。スピノザの『エチカ』を思わせるような書き方だ。

彼が展開したのは一種の「言語論」だ。その思想の発展は「前期」「後期」の2つに分けられる。前期の思想がこの『論考』に詰まっている(というより、彼の生前に刊行された著書はこれしかない)。

ウィトゲンシュタインはこの『論考』において、言語の基本的な構成単位を「要素命題」と呼んだ。そして要素命題は、現実におけるある事実を写す「像」であると考えた。どういうことかというと、「現実のある瞬間を写真のように写しとって言葉で表現したもの」が、言語の基本単位であるという風に決めたのだ。また、それら要素命題から論理的に構成されたものとして分析できる命題だけが意味のあるものとして認められるとした。これは「科学的・合理的な言葉を使った、筋道だった表現だけが(言語論的に)有意義なものだ」と言っている。そして、それまで哲学のメインテーマであった「自我・価値・倫理」といったものについての問題は、「科学的・合理的な言葉」で明解に表現されたものでないため「語りえないもの」と言い切った。唯物論的な発想だ。要するに《語りえぬものについては、沈黙せねばならない》というメッセージは、「科学的・合理的な言葉を使った表現でなければ、語ることに意味はない」という意味をこめて発せられたものなのだ。

哲学のフィールド、考え直しません?

この『論考』とともに紹介しておきたいのが、フレーゲラッセルという2人の哲学者だ。ゴットロープ・フレーゲウィトゲンシュタインより50年ほど早く、1848年に生まれた。彼の学問的な功績のうち、ここでとりあげたいのは《厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号、言語に関する考察》だ。どういうことかというと、彼は「哲学のフィールドを考え直しませんか?」と提案したのだ。

デカルトに始まる近代哲学は、自我(自己意識)の存在の確実性から出発し、意識分析(反省)の方法によって、認識や存在の問題を解明しようと努めてきた。しかし、この内省的方法は意識の私秘性(privacy)という壁に阻まれ、外界存在の証明や他我認識(他人の心)の問題を解決することができず、独我論や不可知論の袋小路に陥らざるをえなかった。(野家[2008:79])

上に引用した通り、「われ思う、ゆえにわれ在り」のデカルトから始まる近代哲学の「自分の意識をじっくり"観察"する」という方法論には問題点があった。「他人の意識を直接見ること」ができない(《意識の私秘性》)のだ。フレーゲは「それなら哲学のフィールド自体を考え直そう」という発想をした。「私秘的な意識」を土俵にするのではなく、「公共的な言語」を哲学のメインフィールドにしようと提案したのだ。これがいわゆる「言語論的転回」だ。ウィトゲンシュタインはこのフレーゲの思想の影響を受け、第1次世界大戦でオーストリア兵として従軍するかたわら『論考』を著した。

一方ラッセルは、ウィトゲンシュタインにとっての「論理学の師匠」だ。ベルリンの工科大学で航空工学を学んだ後に数学の基礎へと関心を移していったウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にいたラッセルの下で論理学を学んだのだ。ぼくの見立てでは、この経験が『論考』の文体・思索の方法に強く反映されていると思われる。

そして「言語ゲーム」へ

さて、こうして「科学的な言語」を重視する立場にたったウィトゲンシュタインだったが、『論考』を出版した後《現実問題として日常言語の中で人は生活していること》をはたと考えた。

「元気そうでよかったね」などという日常的に交わされる言語が大切なのであって、科学的な言語を分析しても世界のことは何もわからないのではないか、そのように考え始めます。(出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社)

では、そのような「科学的でない言語」が指し示す意味は何によって決まるのだろうか。この問いに対して考えを進めていった彼は、「文脈こそが意味を確定する」という結論にいたった。どういうことか。

たとえば、誰かが「雨が降りそうだよ」と言ったとき、それは次のようなことを伝えたかったのかもしれません。 「だから傘を持って行ったほうがいいよ」 また、そうではなくて、「ずっと雨が降っていなかったから、これで畑の野菜も助かるねえ」と言いたかったのかもしれません。(前掲書より)

要するに、「話し手(と聞き手)のおかれた状況によって、発せられた言葉の意味は変わる」ということだ。当たり前だろうと思うだろうが、このことをちゃんと哲学として考えたのはウィトゲンシュタイン以前は誰もいなかったのだ。

こうした考えから、彼は「言語ゲーム」という概念を考案する。これはつまるところ「言語が文脈ごとに持っている多様な姿を考えよう」ということだ。フレーゲが提案した「言語分析としての哲学」を突き詰めたのだ。言語ゲームの提唱によって、近代哲学の「言語論的転回」は完了したとも言えるだろう。

こうしてウィトゲンシュタインの思想は、「言語(による表現)を離れた"客観的な世界"は有り得ない」という唯物論となった。ぼくには親しみがわく考え方だ。今日はこれからもう少し、言語について、文脈について考えてみたい。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

参考

【創造性を鍛える】ジョン・J・レイティ『脳を鍛えるには運動しかない!』(NHK出版) #43

f:id:fugithora812:20200821081604j:plain

この記事から学べること

  • 記憶力は鍛えられる
  • 運動が記憶の効率を高める
  • どんな運動をすれば良いか

「記憶」の仕組みを知りたい

阪急六甲駅から大学までの長い坂を20分以上かけて毎日登っていた頃、池谷裕二『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス)を読んだ。それからというもの、「ものごとが記憶される仕組み」に興味がわいて色々調べていた。そんな折、メンタリストDaiGoさんの動画で今回取り上げる『脳を鍛えるには運動しかない!』を知った。タイトルに惹かれ、さっそく取り寄せて読んでみた。どうも運動が記憶形成の助けになるらしい。本書では「うつ症状の緩和」や「賢く老いる」といった観点からも、運動の効用が紹介されている。だがこの記事では運動と記憶の関係にしぼって、少しまとめてみようと思う。

受付レディの増員

脳の中で、情報をあれこれ加工し「記憶するもの」「記憶しないもの」に分類している箇所がある。海馬(かいば)と呼ばれる。この海馬は、大きく歯状回(しじょうかい)とアンモン角とに分けられる。このうち、「より多くの情報を記憶する」という観点からみてみると、重要なのは「情報の入り口」となる歯状回のほうだ。いわば「海馬コーポレーションの受付レディ」だ。実は脳のニューロン(神経細胞)のなかで歯状回のものだけが、増殖することがわかっている。要するに、ぼくたちが記憶すればするほど、「受付レディの増員」が起こってより多くの情報を記憶できるようになる。科学的に見て、記憶力は鍛えられるのだ。

また、ぼくたちは感情がともなう情報ほどすんなりと覚えられるということがある。これは「情動」を司る扁桃体(へんとうたい)が、海馬におけるLTP(長期増強)を促進することによる。ざっくり言うと、「おもしろい」「楽しい」「こわい」といった感情が、脳の「記憶しやすい状態」をつくるということだ。つまり、刺激の多い環境に身を置くことでぼくたちは記憶する能力が高まり、「成長できる」ことになる。

2つで1つ?運動と学習

ニューロンは運動によって生まれ、環境から刺激を受けて生き残っていくのだ。

では、運動が脳に及ぼす影響についてみてみよう。と言っても、上に引用した一文で半分以上は説明されている。先ほど「海馬歯状回のニューロンは増殖する」ことを紹介したが、運動はこの「ニューロン新生」を大きく促すことがわかったのだ。今回取り上げる『脳を鍛えるには運動しかない!』には、フレッド・ゲージによるマウスを用いた実験が紹介されている。

「驚いたことに、回し車をひとつ置いただけで、生まれるニューロンの数に大きな変化が現れたのです。」

だがせっかく生まれたニューロンも、賦活されなければ(つまり、使われなければ)すぐにだめになってしまう。鮮度が命なのだ。とすると、「軽く運動をしたらすぐに勉強する」というのが、記憶の効率を高めるためには有効だと思われる。

また、運動の効用は「ニューロン新生」だけではない。本書によると、脳にとって「肥料」となる物質も、運動によって多く分泌されるという。BDNF(脳由来神経栄養因子)と呼ばれるその物質の正体は、活性化した(よく使われている)ニューロンの内部で作られるたんぱく質だ。運動中はこのBDNFが多く作られる。ざっくりまとめれば、運動によって「脳がものごとを記憶しやすい状態」をつくることができる。

では、なぜ運動によって学習能力は上がるのか。これは人類が誕生してからの「ライフスタイル」が大きく関係しているようだ。

つまりは成長するか衰退するか、活動するかしないか、ということだ。元来、わたしたちは体を動かすようにできていて、そうすることで脳も動かしている。学習と記憶の能力は、祖先たちが食料を見つけるときに頼った運動機能とともに進化したので、脳にしてみれば、体が動かないのであれば、学習する必要はまったくないのだ。

要するに、そもそも人間(というより、生物)にとっての記憶は「マンモスを狩るときにはこう動いて、ここを狙う」「東に10分程度あるけば食べられるキノコが生えている場所がある」というように、運動と不可分だったのだ。自転車の乗り方やブラインドタッチの方法など、「体にしみついた動き」を忘れることが少ないのもこのせいだろう。

どんな運動をしよう?

では、どんな運動をすれば良いのか。それは本書によると、ごく軽い運動で良さそうだ。

三〇分のジョギングを週にほんのニ、三回、それを一二週間つづけると、遂行機能が向上することが確認された。

つまり、大事なのは「1回1回の運動の強度」ではなく「小さく、長く続けること」なのだ。ちなみに「遂行機能(エグゼクティブ・ファンクション)」とは、《考えを臨機応変に変えたり、型にはまらない独創的な思考や解決策をつぎつぎに生み出》す能力をいう。つまり「別々に記憶されていたことをつなげる、新たなネットワークをつくる」力だ。

本書で運動の効用を知ってから、ぼくは朝すこし早く起きて自宅のまわりを歩くということをはじめた。半年ほど続いている。主観的な感想だが、確かに覚えていられる本の内容は多くなった気がする(このブログでアウトプットを続けているというのもあるが)。なにより体を動かすことが楽しくなってきたので、1カ月ほど前から高強度の筋トレも始めた。どれだけ続くかはわからないけれど、少なくとも今年いっぱいはやるつもりだ。

【行動経済学入門の入門】ダン・アリエリー『予想通りに不合理』(ハヤカワノンフィクション文庫) #42

f:id:fugithora812:20200807083900j:plain

この記事から学べること

不合理な論理

あなたは義理の母親の家で感謝祭のごちそうを食べている。テーブルには特別に用意された豪華な料理がいっぱいに並んでいる。(中略)あなたはベルトを緩め、グラスのワインを口にする。そして、テーブルの向こうにいる義母を敬愛のまなざしで見つめながら、おもむろに立ちあがって財布を取りだす。「お義母さん、この日のためにあなたが注いでくださった愛情に、いくらお支払いすればいいでしょう」あなたは真摯に言う。一同が静まりかえるなか、あなたは手にしたお札を振ってつづける。「三〇〇ドルくらいでしょうか。いやいや、四〇〇ドルはお支払いしないと」

この記事を読んでいるあなたは、上のような振る舞いをしたら周りの雰囲気がどうなるか予想できるだろう。義母は善意の料理に金銭を払うと言われて、良い気分はしないはずだ。では、このような状況でお金を払うことはなぜ、一般的に好ましくない状況だと思われているのだろうか。

それはわたしたちがふたつの異なる世界―社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則をつくる世界―に同時に生きているからだ。

ここで「社会規範が優勢な世界」とは、友人同士のようにほのぼのとした「助け合い」によって成り立つ関係・環境のことだ。この世界において、相手の要求に応じて何かをすると《どちらもいい気分になり、すぐにお返しをする必要はない》。つまりお金のやり取りは度外視される。

一方、「市場規範が規則をつくる世界」はまったく違う。ほら吹きとどら焼きくらい違う。《賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ》。だがその分、《対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある》。要するにお金を払った分だけ見返りが得られる世界だ。

冒頭の例をもう一回見てみよう。この例の「あなた」は、社会規範が優勢な世界に「いくらお支払いすればいいでしょう」と市場規範を持ち込んでしまったために、一同が静まりかえってしまったのだ。

本書はこのように、人間の「実生活における論理」を平易な言葉と科学的な実証をもって解き明かしていく。著者のダン・アリエリーはノースカロライナ大学で認知心理学を修め、さらにデューク大学経営学の博士号をとった行動経済学の第一人者だ。「心理学者が経済学?」と不思議に思う向きもあるかもしれない。そこでこの記事の後半では、「行動経済学」って何なのか、どんな流れから生まれてきたのかを紹介しよう。

合理的な経済人・不合理な人間

行動経済学は21世紀になってから注目されだした、比較的新しい学問だ。その研究テーマはざっくりいうと「従来の経済学ではうまく説明できなかった『不合理な』社会現象・経済現象の論理を、人間の振る舞いを観察することで明らかにする」といったものだ。もう少し詳しく説明しよう。もともと経済学という学問が、その理論をつくるにあたって大前提としていた人間像がある。「ホモ・エコノミクス(経済人)」と呼ばれる。この前提によれば、人間は「セルフ・インタレスト(自己に関連したもの=私利私欲)に基づいて、効用(満足感)を最大化するような合理的な行動を選択する」存在だとされる。

アダム・スミスをはじめとする経済学者たちは、この前提を基にして経済学の理論をつくりあげてきた。こうした経済理論は、時に国家の経済政策の科学的な後ろだてとなって、現実に強い影響を及ぼしてきたことも事実だ。だがしかし、あなたは思うだろう―「人間はそんなにいつもいつも、私利私欲を求めていて合理的なわけじゃない」と。まったくその通りだ。認知心理学者のダニエル・カーネマンもそう思った。そこで、「心理学の手法をもって不可解な人間行動、ひいては不可思議な経済現象を解き明かすことができるのではないか」と考えたのだ。

結果を言ってしまえば、この試みは大成功だった。カーネマンはエルサレムヘブライ大学の同僚エイモス・トバースキーとともに、「行動経済学づくり」を敢行した。

私たちはお互いに容易に理解できる程度には似ていたが、お互いに相手を驚かせる程度にはちがっていた。私たちは平日の多くの時間を共にする日課を決め、よく散歩をしながら議論を戦わせた。(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房))

彼らの提唱した重要な理論に「プロスペクト理論」がある。これは人間が、「現状からみれば得」より「今よりも損」のほうに大きく反応する傾向があり、その損がきわめて大きくなると大きな反応は示さない(いわば「現状維持志向」になる)ことを明らかにしたものだ。この理論を説いた論文は《大きな影響をもたらし、行動経済学を支える基盤の一つとなっている》。プロスペクト理論はさらに、それ以前にフランスの経済学者アレが指摘していた「アレのパラドックス」を合理的に説明するものだった。これ以上詳しくは紹介しないが、要するにカーネマンらの「リスクのある状況下での意思決定の分析」はいわば「行動経済学の夜明け」になった。実際2002年に、カーネマンは「経済学に心理学の手法を導入し、不確実性のもとでの人間の判断・意思決定について新たな研究分野を切り開いた」という理由でノーベル経済学賞を受賞した(残念ながらトバースキーは1996年に亡くなっている)。

とは言え、行動経済学はまだ始まったばかりだ。2004年には日本にも行動経済学研究センター(大阪大学)ができた。ぼくたちも本書を通して、こうした「人間の不合理な論理」に目を向けるのも良いかもしれない。

参考

【コロナと仏性】幸田露伴『風流仏』 #41

f:id:fugithora812:20200801154910j:plain

この記事から学べること

  • 『風流仏』とはどんな物語か
  • 露伴が表現したかった思想
  • 幸田露伴の生い立ち

はかない風流・永遠の仏性

 明治文学の大家、幸田露伴の出世作だ。尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』に続く形で「新著百種」第5号として発刊された。1889年のことだ。同じ年に大日本帝国憲法が発布され、エッフェル塔が完成した。北里柴三郎も破傷風菌の純粋培養に成功していた。そんな年に露伴文学は世に躍り出た。

 仏像彫刻をなりわいとする「仏師」を主人公にした話だ。フロム・ソフトウェアから発売されている人気ゲーム『隻狼』にはうら枯れた老年の仏師が登場するが、本作の仏師は21歳と若く、恋愛盛りの青年だ。珠運(しゅうん)という名のその仏師は、「古跡めぐりの旅」の途上立ち寄った木曽(いまの長野のあたりだ)の須原で花漬売りのお辰と「仲良く」なり結婚する段どりとなる。ところが何年も行方が知れなかったお辰の父は、維新に際して海外へ渡り、帰国後子爵となっていた。「町の定食屋の看板娘が、実は社長令嬢だった」という状況を想像してもらえれば良い。ともかくお辰はその子爵の娘ということがわかった為に東京に連れ去られ、珠運との縁談は反故になる。狂おしいのは残された珠運である。彼は自分ではどうしようもできない状況を前に、檜の板に女体の菩薩像を刻み始める。罵りつ、口説きつして彫り上げたその菩薩像にはやがて魂が宿り、珠運ともども仏となって所々にあらわれる。「はかない風流」が「仏性」を得る。そういう話だ。

 終盤の文章は飛躍的な描写が多く難解だが、《風流と仏とは矛盾したものではなく、風流即仏となって始めて大調和の世界が生ずる》(塩田良平)という思想を表現したものだとされる。塩田氏は《現実とその破綻を煩悩と理性との対立の形で描写され、そこを芸術によって乗りきったところに、真風流が生じたことを示した》と評している。要するに面白いので一度読んでみる価値はある。ぼくは細部の描写を味わいながら、ひとつずつかみくだくように読んだ。「虚言(うそ)といふ者誰吐そめて正直は馬鹿の如く、真実は間抜の様に扱はるる事あさましき世ぞかし」という一文が一番のお気に入りだ。

茶坊主に生まれた露伴

 露伴が生まれた幸田家は、代々「お茶坊主」として幕府に仕えていた家柄だ。1867年、江戸は下谷(したや)に生まれた。いまの台東区(たいとうく)北西部だ。ちなみに67年、維新の1年前の生まれだから、さきに紹介した尾崎紅葉とは同い年だ。露伴は湯島の聖堂に通い詰めていたころに出会った淡島寒月を通じて、紅葉とも親しくなった。ちなみに露伴が湯島の聖堂に通っていたのは、そこで東京図書館(いまの国立国会図書館支部上野図書館)の書籍が閲覧できたからだ。ここで彼は当時「邪道」とされていた老子・荘子をはじめとする諸子百家の古典を読破した。それだけでなく、一般の漢学者たちが敬遠していた水滸伝・西遊記なども読み漁り、さらに近世の稗史(はいし)小説、俳諧、雑書まで読み込んだ。これが結果として、作家としての「基礎トレーニング」になった。

 また、文学家というイメージにそぐわず、「官費学生」として電信修技校に入学している。当時、電信技術は先端的な技能だった。いまでいうプログラミングのようなものだ。そこに国のお金で学べたということの要因は家柄もあるだろうが、露伴自身の数学の才も少なくないだろう。ところが彼は卒業後、官費学生の義務として北海道の余市(よいち)町電信分局に赴任するのだが、そこでの勤務を放棄して帰東してしまう。1885年のことだ。ちょうど坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』が出版され、また尾崎紅葉らの硯友社などによって文壇は新たな展開を示しつつあった。露伴は北方でこの情勢を聞き及び、ある種の切なる思いをもって出奔したという訳だ。

 東京に舞い戻ってしばらくの間、露伴は雌伏の時代を送る。父の怒りに触れ、父が経営する紙商の店番をやらされていた。だが何もせず、手をこまぬいていた訳ではない。「風流禅天魔」や「露団々」といった習作を書き上げた。前者は残念ながら未発表のままうずもれてしまったが、露団々の方は1889年の2月に雑誌「都の花」に掲載された後、単行本となった。淡島寒月らが褒めちぎった。男女の悲恋を写実的に描いた小説が盛んになりつつあった当時に、露伴は恋愛を主題とせず、ある種風格がある作風によって世間の耳目を集めた。

 こうして露伴は今回とりあげた『風流仏』をはじめとして、『対髑髏』『五重塔』『幻談』『連環記』と年を追うごとに新作をものしていった。ぼくは2年ほど前、露伴74歳の時の作である『連環記』を図書館で借りだして読んだが、面白かった。だが「ちゃんと読み切る」にはまだ時間がいる作品だとも思った。江戸以前の古典に興味がある向きは、『連環記』にまず親しんでみるのも良いだろう。

 さて、今年の初めから燎原の火のごとく猛威を振るい始めたコロナウイルスとわれわれとは、もう少しつきあっていく必要があるものらしい。ぼくもこの半年間、ほとんど外食していない。そんな今だからこそ、露伴から「はかないもの」の一端を学んでみるのも悪くないだろう。

風流仏

風流仏

参考

  • 集英社『日本文学全集』第3巻
  • 小学館『日本国語大辞典』
  • 小学館『日本大百科全書』
  • 松岡正剛 監『情報の歴史』(NTT出版)

【母を恋うる】泉鏡花『高野聖』(角川文庫) #40

f:id:fugithora812:20200726171311j:plain

この記事から学べること

  • 泉鏡花とはどんな人物か
  • 尾崎紅葉との関係
  • 『高野聖』が出版されたころの社会情勢

紅葉の愛弟子

 先週は尾崎紅葉を紹介した。今回取り上げる泉鏡花は、その紅葉の愛弟子だ。小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉とともに「紅葉の四天王」と称される。特に鏡花は、若くして大成した紅葉宅の最初の玄関番として坐った。

 泉鏡花こと、泉鏡太郎は1873年、石川県金沢に生まれた。父は「政光」の工名をもつ腕利きの彫金師で、母は江戸葛野(かどの)流の大鼓(おおかわ)の大家、中田家の娘であった。要するに鏡花は、「工芸の血」と「芸能の血」を引き継いだのだ。これが後に、その文学にも大いに反映されることになる。ぼくは特に『歌行燈』における、緊張感ある能の描写が好きだ。

 ところで鏡花の作品の主要なテーマの一つとして、「母を恋うる感情」がある。これは1883年、鏡花10歳の時に母が亡くなったことに関連しているとされる。幼くして母を失った悲しみが後に「年上の美女憧憬」という特性となって、鏡花作品に多く出現するテーマとなったのだ。

 さて、鏡花が紅葉邸の門をたたいたのは1891年、18歳の時であった(当時は数え年で年齢を言うのが専らであったから、「数え19歳」と記している書物もある)。実は彼はこの1年前には金沢から上京していたのだが、臆して訪問をためらっていた。慣れない土地での放浪生活の末、地元の友人に諭され「都落ち」する気にまでなっていたのだ。ところが、彼の友人が、紅葉と縁続きの人と同じ下宿にいたところから、彼は何とか面会にこぎつけた。

 会いに来られた紅葉の方はというと、先に述べた親類を伝って面会以前から鏡花の窮乏ぶりを聞いており、また生来の兄貴肌の性質があったから、面会の翌日からさっそく「玄関番」として食わしてやることにしたのだった。

 結局のところ、鏡花文学が世に出るきっかけとなったのはこの面会だった。人間、生きていると奇異な縁や偶然の幸運がひとつくらいはあるものだが、鏡花の場合は紅葉との出会いがそれであった。

ゴーストライト・一代の傑作

 玄関番3年目の5月、京都日出新聞にて鏡花の出世作が連載される。『冠弥左衛門』だ。畠芋之助という名義で出した。実はこの作品は、紅葉らが設立した「硯友社」にいた小説家、巖谷小波(いわやさざなみ)の作品として世に出た。いわば明治のゴーストライターだ。だが評判はさほど良くなく、師の紅葉の下には打ち切りを求める文が少なからず届いたようだ。だが紅葉は師として、鏡花をかばってこれを完結させた。兄貴肌がここでも出た。児童文学者の福田清人氏によれば、この作品は評判こそ良くなかったものの《鏡花の後の発展への芽があり、また後の大作『風流線』へつながる鏡花文学の素因が汲まれる》ものであったようだ。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、今回紹介する『高野聖』は鏡花一代の傑作だ。能の謡曲的な手法を用いて、主人公が宿を共にした旅の僧侶に、かつて飛騨から山越えをした際にであった奇譚を物語らせた。福田氏いわく、《土俗信仰的要素が濃》い彼の神秘主義と、幼き日の母の死に端を発する美女礼賛が、『高野聖』で《みごとに融合している》。と、作品の評価はこんな感じだが、実際に今読んでも面白い。「怪談が好き」「近代文学に触れてみたい」という人には自信をもってオススメできる一冊だ。

1900年という年

 さて、「ふぎと屋」流にこの頃の社会の様相も少し案内してみよう。『高野聖』が世に出たのは1900年のことだが、この頃の日本はというと民主主義の真の実現を求めて普通選挙運動が全国化する一方で、安部磯雄(いそお)を会長に社会主義協会が発足していた。ヨーロッパに目を向けてみると、ドイツのプランクが熱放射による電磁波の波長とエネルギーの関係を説明するためにプランク定数hを導入した一方で、セザンヌの『玉ねぎのある静物画』やクリムトのウィーン大学講堂画が話題をさらっていた。またシベリア流刑から釈放されたレーニンはスイスへ亡命し、パリ万博では史上初めてトーキー(有声)映画が上映され、来場者たちを驚かせていた。

 こんな折に発表された、鏡花の「幻想世界」にハマる人は後々まで多かったようである。松岡正剛氏は「千夜千冊」で《三島由紀夫も五木寛之も、鏡花復権を謳っていた。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられた》と書いている。ぼくもどうやら、その中のひとりになりそうだ。折しもこの記事を書いている今、外は篠突く雨である。激しい雨音の誘いで幻想世界へ再び赴くというのも、悪くない。

高野聖 (角川文庫)

高野聖 (角川文庫)

  • 作者:泉 鏡花
  • 発売日: 2013/06/25
  • メディア: Kindle版

参考

  • 集英社『日本文学全集』第2巻
  • 小学館『日本大百科全書』
  • 松岡正剛 監『情報の歴史』(NTT出版)
  • 竹内淳『高校数学でわかる相対性理論』(講談社ブルーバックス)
  • Webサイト「松岡正剛千夜千冊」

【26歳の代表作】尾崎紅葉『三人妻』(岩波文庫) #39

f:id:fugithora812:20200721053636j:plain

この記事から学べること

最後の江戸人

 日本が近代国家としてのスタートを切る直前の1867年、 江戸の芝中門前2丁目に生まれた男があった。名は徳太 郎。のちに文学結社「硯友社」を創立し、文学史に名を 残すことになる尾崎紅葉その人だ。工芸家の血を引き、 徳川の名残を呼吸した。

 彼の少年期について、ここでは詳しくとりあげない。 だがひとつ言うならば、紅葉と山田美妙(びみょう)との 出会いは文学史的に重要だ。というのも、この2人の出 会いが「硯友社」の設立につながっていくからだ。

 2人は小学校時代に近所に住む間柄で、その時は間も なく親交が途絶えたが、東京府(当時は「都」でないの だ)第2中学校での再会・紅葉退学による疎遠をへて、 大学予備門(言うなれば英語学校だ)での再会に至って、 硯友社が創立されるのだ。1885年のことだ。

 「硯友『社』」と言っても、当初は今でいう「大学の 文学研究会」のようなものだった。参加した者たちがお のおの書きたいことを書くものだから、そのジャンルは 小説、詩や落語、都都逸(どどいつ)といったように、趣 味的なものだった。ちなみに都都逸とは江戸時代に流行 った俗曲のひとつで、七・七・七・五音に調子をつけて 男女の恋愛などを歌ったものである。「ミリオンヒット」 も多く生まれた。『三千世界』などが有名だ。

 さて、こうして趣味の範囲で始まった硯友社だが、そ の機関紙『我楽多(がらくた)文庫』の発行を続けるうち に、口から口へ好評が広がっていき、1888年には公売を 始めるにいたった。「趣味で始めたYouTubeが本業になっ た」と考えてもらえればわかりやすいかもしれない。

 社会的に見ても、この時期は幕末明初の混乱が「西南 の役」を峠として落ち着き、文学に目を向ける余裕を持 ち始めた頃だった。紅葉はこの頃に法科(法学部)から文 科(文学部)へと移ったが、1890年にはその文科も退いて 「専業作家」への道を歩み始める。坪内逍遥の『小説神 髄』『当世書生気質』出版が背中を押した。

弱冠26歳での代表作

 さて、今回取り上げる『三人妻』は尾崎紅葉の3つの 代表作の内の1つだ(あと2つは『多情多恨』と『金色夜 叉』)。「実業家」の像を初めて描き出した小説でもある。

 主人公は明初の混乱期にあって、己の才覚のみで大豪商 となった男、余五郎(よごろう)。加州金沢の貧農の家に 生まれた彼も、有り余る金を稼ぎし今は衣食住に困るこ とはない。そうすると湧き出てくるのは、むべなるかな 女色の楽しみである。作者はこうした「男にとっての無 二の楽しみとは女色である」という価値観をまず書いて から、前半で余五郎の漁色を描いていく。彼が心を寄せ た女性3人はいずれも、最初は抵抗するのだが、彼がそ の財力をタネに仕掛ける策略にかかり、次々と妾になっ てゆく。

 彼女らがタイトルにもうたわれる通り「3人の妻」と なるのだが、本作にはもう1人、重要な女性が登場する。 本妻のお麻である。実は余五郎、貧乏時代に通いつめた 矢場(「接待」つきの射撃場)で、その本妻をたらしこん でいたのだ。本作後半はこの4人の女性を中心に、人間 関係の機微が描かれる。おのおのが生まれ育った環境に 応じ、個性や行動を描き分けていく技量はものすごい。 紅葉はこれを26歳の若さで書いたというのだから驚きだ。

読売新聞という拠点

 この力作は1892年、7カ月ほどかけて「読売新聞」に 連載された。彼が拠点とする誌面だ。その話もしておき たい。

 紅葉は1890年、出世作『二人比丘尼色懺悔』を書く。 その反響あってか、彼は同年12月から読売新聞社に入社 し、文芸欄を担当することになる。これは今の「文芸部 の記者」とは違って、社員として給料を得る代わりに作 品を書くといった「プロ作家」のようなものだった。子 安峻(たかし)らが今で言う「ゴシップ誌」として創刊し た本紙はしかし、紅葉入社のころには新聞界第一の発行 部数を誇る日刊紙になっていた。さらに当時は、坪内逍 遥らを社員として抱えていたこともあって、当時の文壇 に対する影響も大きいものだった。そんな、まさに作家 としての「ホームグラウンド」を紅葉は拠点にする僥倖 に恵まれたのだ。23歳の時である。その後、彼は『三人 妻』はもちろん、主要な作品のほぼすべてを紙上で発表 した。早熟の才能がほとばしった。

 文筆家としての紅葉はまさに「推敲の人」だった。集 英社の『日本文学全集』第2巻の解説に、紅葉の推敲は 《一句一節を練るため三、四時間を費し、はなはだしい のは数日をへて、ようやく会心の句を得るといった調子 であった》とあるように、かなり凝ったものだったよう だ。また己の文章を錬磨するため、俳句の創作にも励ん だ。句集もまとめられている。

 若くして文壇に名を轟かせた紅葉はしかし、胃を病む 身で『金色夜叉』を書きつづけ、中途にしてその生涯を 終えた。1903年、37歳での永眠である。生前、生死一如 の達観した死生観を述べながらも、執筆途中で逝くこと の無念は小さくなかったようだ。俳人の水落露石にあて た手紙に「今死に候ては七生までも世に出でておもう通 りの文章を書き申さずては已まずと執着致居候」と書い ている。

 さて、今回もずいぶん長く書いてきたのでそろそろ終 わりにしよう。ぼくとしては今後とも折に触れて、『二 人比丘尼色懺悔』から躍如する紅葉の文業が与えた影響 を紐解いていきたいと思う。

参考

講談社『日本人名大辞典』

小学館日本大百科全書

集英社『日本文学全集』    

【「情報選別力」を鍛える】瀬木比呂志『リベラルアーツの学び方』(ディスカヴァー21) #38

 f:id:fugithora812:20200716134956j:image

この記事から学べること

「構造的」に見る

 刺さった。「リベラルアーツ」の重要性、そしてそれ
をどう学び、活かすかというところのエッセンスをここ
まで濃縮した本はないと感じた。何より書名から「学び
方」と、方法にスポットを当てているのが良い。これは
ぼくが「編集工学」の提唱者である松岡正剛氏に私淑し
ていることもあるだろう。編集工学でも「編集という方
法」を通して、自己のありかた、情報のありようを探っ
ていく。詳しくは松岡正剛『知の編集術』(講談社現代新
書)を読まれたい。
 本書『リベラルアーツの学び方』の著者、瀬木氏は裁
判官として勤務する傍ら、研究活動も行っていた「理論
と実践」の人だ。2012年からは明治大学法科大学院
指導にあたっている。本書を書いていることでもわかる
通り、決して「専門バカ」な人ではない。本書では、基
本的な方法を戦略を一通り述べた後、いわゆる学問の分
野から、映画、音楽、美術に至るまで幅広い分野の基本
文献・作品を批評的に紹介している。造詣の深さが節々
に感じられ、とても楽しめた。
 さて、この「造詣を深める」、つまり「リベラルアー
ツを身につける」にあたっては、どういう考え方が重要
なのか。瀬木氏はこう説明する。


 まず重要なのは、個々の対象に接する過程で、批評的・
構造的なものの見方、物事のとらえ方を学ぶことだと思
います。


ぼくの言葉で言えば「本質をとらえる力」を磨くのがな
により大切だ、というようなところだろうか。そうする
と、《批評的・構造的なものの見方》はどうやって学ぶ
のだろうか。


 ポイントとなるのは、自分なりの批評の「定点」、基
準点を定め、それをしっかりと保つことです。定点を欠
いた批評は、自己の知識と見解の主観的・趣味的な羅列
になりがちです。


ぼくはこの文章を「一般的な物事に『絶対的な善悪』は
無い、だがおのおのがおかれた立場、バックボーンにす
る思想によって、『相対的な良し悪し』は生じえる。だ
からこそその学問・作品がどういう立場(=《定点》)に
立脚するか(しているか)、を明確にし、それにのっとっ
て価値判断を下すことが大切だ」という風に読んだ。こ
こでなにより強調されているのは「個々の著作・作品を
全体に位置付けること」ではないかと思う。おそらくそ
れが物事を《批評的・構造的》に見るということだろう。
 では、そもそもリベラルアーツとは何なのか。この問
いに答えるために、以下ではすこし「メタ・リベラルア
ーツ」を試みてみたいとおもう。

リベラルアーツの由来


 リベラルアーツの思想は、古代ギリシアに発祥したと
される。「肉体労働から解放された自由人にふさわしい
教養(パイディア)」という考え方から、当初は「自由七
科」と呼ばれた。具体的には文法学、修辞学、論理学、
算術、幾何学天文学、音楽の七つだ。これらを5世紀
ごろ、カッシオドルスらがキリスト教の理念に基づいた
カリキュラムを組むために、法学・医学・神学の基礎科
目として集大成させた。ここから中世にかけてはある種
の「学問ライセンス制度」なるものが存在し、この「自
由七科」を修めたと認められなければ「最高位の学問」
神学を学ぶことは許されなかった。
 大まかな「リベラルアーツ史」はこういったものだ。
では近年ではどういう位置づけになっているか。これに
ついて瀬木氏は以下のように書いている。


 実践的な意味における生きた教養を身につけ、自分の
ものとして消化する、そして、それらを横断的に結び付
けることによって広い視野や独自の視点を獲得し、そこ
から得た発想を生かして新たな仕事や企画にチャレンジ
し、また、みずからの人生をより深く意義のあるものに
する、そうしたことのために学ぶべき事柄を、広く「リ
ベラルアーツ」と呼んでよいと思います。


 この文章で瀬木氏は《自分のものとして消化する》と
いう言葉を使っているが、ぼくはここに「精神的な栄養
として学問・芸術を取り込み、自らの血肉とする」とい
う示唆を感じた。
 要するに、「消費」ではなく「消化」なのだ。個々の
著作・作品に触れたときに、それをしっかり消化できる
か。この「消化力」こそがリベラルアーツではないか
思う。言い換えれば「趣味の時間を今後に生かす技術」
とも言えるだろう。
 かく言うぼくも今、消化力を鍛えている真っ最中だ。
知識の欠陥を感じていた高校数学の復習に始まり、高校
物理、高校化学、そこから統計学、(特殊)相対性理論
進んできた。「エントロピー」を扱う熱力学や、「複雑
性の科学」にも興味がある。社会科学系で言えば、大学
で学んだ経営学会計学や、社会学をまたやりたい。漫
画では『鬼滅の刃』や『キングダム』を読みたいと思っ
ている。さて、これらをすべてやりきる日は来るのだろ
うか。方法はあっても時間がない。合掌―。